ところが『オッペンハイマー』の場合、197ページもある脚本が180分の中にぎゅっと詰め込まれている。3時間20分の内容を3時間にまで圧縮しているのだから、本作が濃厚に感じられるのももっともだ。
あくまでオッペンハイマーの主観で進行する物語
また本作の没入感は、物語がオッペンハイマーの主観を中心にして語られることにより生まれてもいる。
1942年、カリフォルニア大学バークレー校の教授を務めていたオッペンハイマーは、陸軍のレズリー・グローヴス准将から原子爆弾を極秘裏に開発するプロジェクト「マンハッタン計画」への参加を打診される。
そしてナチスドイツが開発を進めるのに対抗し、ニューメキシコ州に建設したロスアラモス研究所でプロジェクトを推し進め、1945年7月の「トリニティ実験」で核実験を世界初の成功に導く。
だが同年8月6日に広島、9日には長崎に原爆が投下されると、オッペンハイマーは罪の意識にさいなまれた。その結果、第二次大戦後は原爆よりはるかに威力の大きい水素爆弾の開発に反対し、周囲の反発を受けた彼はやがて共産主義者の疑いを持たれる――。
こうした一連の流れを、本作はオッペンハイマーが目にし、体感したできごととして、あくまで主観的に描き出す。
脚本を見ると、本作では登場人物の動きなどを記すト書きの大半が、「I」を主語にして書かれている。要するに「オッペンハイマーはノートに目を落とした」ではなく、「私はノートに目を落とした」と一人称で書かれているのだ。これはかなり異例のことだ。
ストーリーが一人称の視点でつづられることにより、観る人はオッペンハイマーの身の上に起きたできごとを、彼の視点から追体験することになる。
大きななにかに巻き込まれていく感覚
くわえて本作で交わされる会話のほとんどは、理論物理学に関する高度に専門的な内容だ。しかも登場人物が多く、時代を往来してストーリーが展開するため、読解は一筋縄ではいかない。『オッペンハイマー』は複雑で入り組んでいる。
にもかかわらず、その難しさが観る人を疎外せず、むしろ吸引するのはクリストファー・ノーラン監督の前作『TENET テネット』と同じだ。なぜなら一人称で展開する物語は、観客を論理的に理解する世界ではなく、感覚的に体感する世界へと引き入れるから。観る人は難解であるからこそ激しく渦巻く、その世界に飲み込まれていく。