1959年(53分)/ディメンション/4180円(税込)

 近年、国の内外を問わず、映画の上映時間が長くなりがちな傾向にある。二時間オーバーが当たり前になっている現状は、少し考えものだ。

 特に娯楽映画に関しては、よほどの超大作でない限りは最低でも二時間以内、百分前後が最も適しているというのが、筆者の持論だ。

 そこで嬉しいのが旧作邦画、特に一九七五年前後より以前に作られた作品だ。当時は二本立て上映がメインだったため、巨匠の撮るような大作を除いては、たいてい九十分前後の上映時間。そのため、無駄なくテンポよく終わることが多かった。さらに、二本立てのメインでない添え物的な「二本目」の作品はさらに短く、一時間前後もざらだった。

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 それで内容的に物足りないかというと、そのようなことはない。むしろ凝縮され、引き締まった構成になっていることも少なくなかった。

 今回取り上げる『拳銃0号』も、そんな一本だ。上映時間はわずか五十三分。

 本作は、一挺のコルト拳銃が次々と持ち主を変えていく中で物語が展開する、西部劇『ウィンチェスター銃’73』のような群像劇だ。ユニークなのは、人間ではなく拳銃の視点で貫かれている点だ。

 それだけ読むと、どういうことかと面喰らうかもしれない。実は、冒頭とラストでコルトがナレーションとして人間の言葉を話しているため、コルトがまるで主人公のような印象を与えているのだ。

 そして、コルトの声を担当しているのは、なんと小沢昭一。独特の軽妙な語り口が、ハードボイルドな世界をユーモラスに彩っていた。

 見事なのは、「よくぞこれだけ詰め込んだ」と感心したくなるほど数多く、拳銃の持ち主にまつわるエピソードが次々と繰り広げられていくことだ。しかも、そのいずれもが一様ではない。標的(待田京介)を仕留めなかったために粛清される殺し屋(宍戸錠)もいれば、自殺を図ろうとする貧乏バイオリニスト(浜村純)もいる。時には遊園地にいる赤ん坊の手に渡ってしまうことも――。

 中でも鮮烈な印象を与えるのが、これが本格デビュー作となる赤木圭一郎だった。

 登場するのは物語の中盤。ビルの屋上から恋人とともに「射的より張りがあるぜ!」「当たったら今晩付き合えよ」と、軽いノリで銃を構えると、嬉々として地上に発砲。そんなサイコパスな若者を爽やかに演じきっているのだ。帰り際にすれ違う浜村純が陰の塊のような暗さを放っているため、その異様な明るさがさらに際立っていた。

 こうした、短時間に凝縮された娯楽映画が、新作でも作られることを望みたい。