母は中華料理を食べながらもしばらく文句を言っていたが、食べ終わってから「ゆかの言うとおりだったわ」と言った。
「勝っているときにやめたから、こんなにおいしいごはんを食べられたのよね」
この話の結末は、別にいい話でもなんでもない。
その後も、母はギャンブルをやめなかった。
私は、大人になったいまでも、まったく賭け事に興味がない。パチンコもしたことがないし、旅行先でカジノに誘われても行くことはほぼない。人が狂ってしまう入り口に立ったことがあるからだと思う。そこはいったん足を踏み入れてしまったら、戻ってこられるのかわからない沼みたいな場所だったから。
お金がないとダメ?
小さいころは、家にお金がないことにぜんぜん気がつかなかった。
母は、私がピアノを習いたいと言えば習わせてくれたし、猫足の素敵なピアノまで買ってくれた。
犬を飼いたいと言ったときには、わざわざ青山ケンネルで、血統書付きのシェットランド・シープドッグを買ってきた。近所の子が飼っているような雑種犬がうちに来ることを想像していたから、貴婦人のように鼻筋の通った上品な犬を見たときは、正直すごく戸惑った。しかも子犬の名前は、母によってすでに「パトラ」に決められていた。ちなみに、クレオパトラの「パトラ」である。
また、年に何度かはフランス料理を食べに連れていってくれたことも覚えている。小さなお皿で順番に運ばれてくるきれいな料理を見て、お姫様になったような気持ちでいた。
シングルマザーの母は、たぶん私に引け目を感じさせたくなかったのだろう。
私立の中高一貫校に私を入学させたのも、片親であることが理由で、不憫な思いをさせたくなかったのかもしれない。
お年玉は母がほとんど母が使い果たす
でも、成長するにしたがって、母がそういう生活を維持するために、いろんな人に借金をしていることを知って、いたたまれない気持ちになった。
経済的に追い詰められた母は、あるときから私の前でも取り繕うのをやめてしまい、いつもお金がないとこぼし、お金を貸してくれと私にまで言うようになった。
そのときの私が貸せるお金なんて、2000円とか3000円くらいだったけど、そのお金すら約束どおりに返してくれることはほとんどなかった。
小さいときから貯金していたお年玉も、ほとんど母が使ってしまった。
母はすごくきれいな人だった。友達から「ゆかのお母さんきれいだね」と言われるのが私は誇らしかった。
お料理や裁縫も得意だった。幼稚園で使うスモックに、すごく凝った装飾をしてくれたときは目立ちすぎて恥ずかしかったほどだ。
遠足や運動会などの行事では、いつも凝った手作りのお弁当を持たせてくれたし、誕生日会には、素敵な料理やケーキを作ってくれた。
私にとっては、それで十分だった。
自慢の母で、大好きな母だった。
そのままの母でいられなかったのはどうしてなんだろう。