そうは言うものの、田代部長にさきほどの勢いはもうない。振り上げたこぶしをどうしたらいいのか戸惑っているようにさえ思える。
「……というような事情で掲載面を変更させていただきました。田代部長にご報告が遅くなりましたことはたいへん申し訳なく、重ねてお詫び申しあげます」
吉井部長と私は床に1時間ほど正座をしたまま、事細かな事情説明を終えた。
「だからな、そういうことは俺にしっかりと説明しなくちゃダメだろう。まあ、とりあえず、今日はもう帰っていいぞ」
「すぐに輪転機を止めてこい」と言っていたのが、「もう帰っていいぞ」まで後退した。ここまで事情説明に赴いたわれわれの目的は果たされたといっていい。
周囲のお客たちからの視線を感じつつ、私たち2人は出口で振り返り、田代部長に再び深々と頭を下げ、店をあとにしたのだった。
翌日、田代部長は、S社の広報室から新商品のプレスリリースの日時について報告を受けていたという事実が判明した。つまり、田代部長が日経の広告割り付けのあり方を理解していなかったというだけのことだったのだ。
この日、田代部長からはなんの連絡もなく、後日、広告掲載料金もきっちりと支払われた。
不機嫌な女優を動かした「スライディング土下座」
私は電通マンとして、これまで数えきれないくらい土下座してきた。もはや土下座になんの抵抗もない。
新人時代、営業部の先輩とともに、ある有名女性歌手のCM撮影に立ち会っていたときのことだ。撮影中、女性歌手が突然、大声をあげた。
「アタシ、こんなセリフ言えませんわ!」
不機嫌を隠そうともしない怒鳴り声に周囲は凍り付く。すると、先輩はすかさずクライアントの担当者の前にスライディングし、「申し訳ありません!」と土下座したのだ。しかもその姿が、女性歌手の視界にしっかりと入り込むように計算して。
新人の私は、まず何が問題なのかを把握し、解決策を講じるべきだろうと思ったのだが、ベテラン電通マンの思考回路はそんなところに迷い込まない。続けざまに、先輩は控え室へと引き上げていこうとする女性歌手の前に飛び出すと、その靴先5センチのところに深々と土下座した。
女性歌手はやれやれといったふうに苦笑いをしていったん控え室に帰ったが、数分後にスタジオに戻ってきた。無事、撮影が再開された。
「福永、よく覚えておけ。土下座ほど効率のいい手法はないぞ」
私には、やすやすと土下座する先輩が格好よく見えた。こうして誰しもが電通マンとしての土下座を会得するのである。広告代理店の社員にとって、「クライアントは神さま」なのだから。