日本陸軍には、当時最新鋭だった「鉄道」を使った作戦を専門にした部隊が存在していた。第一次世界大戦においては、部隊の尽力が戦勝に大きく奏功したという―――。ノンフィクション作家・早坂隆氏が鉄道連隊の謎を解き明かす。

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日露戦争で活躍し、全国から「誘致合戦」が

 明治39(1906)年1月、千葉県の習志野に鉄道部隊の派遣隊が配置された。津田沼と騎兵連隊高津兵廠を結ぶ新たな軍用支線を建設するためである。千葉には陸軍関連の施設が多く、もとより鉄道部隊との結びつきも深かった。

 実は当時、全国各地では「鉄道大隊の誘致合戦」が繰り広げられていた。日露戦争で大きな活躍を見せた鉄道部隊は、さらなる増強が計画されていたが、手狭になりつつあった中野から、より広大な敷地への転営が模索されたのである。各自治体は、鉄道大隊が来ることによる経済効果に大きな期待を寄せたのであった。

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 そんな中、最終的に選ばれたのが千葉県の千葉町(現・千葉市)であった。千葉市立郷土博物館の総括主任研究員である外山信司氏はこう語る。

「千葉町では町長自らが先頭に立って、積極的な誘致活動を繰り広げたということです。当時の千葉町には土地にも余裕がありました。東京から距離が近かったことも良かったのでしょう」

昭和7年ごろの鉄道第二連隊の営門(当時の津田沼町、鉄道第五連隊戦友会『栄光の鉄道部隊記録写真集』より)

 誘致活動には千葉町だけでなく、千葉県知事の阿部浩(第9代)、石原健三(第10代)も尽力したという。

 明治40(1907)年10月、鉄道大隊(3個中隊)はついに鉄道連隊(12個中隊)に拡張となり、一旦、千葉県の津田沼町(現・習志野市津田沼)に転営。翌明治41(1908)年、本営が千葉町の椿森1番地へと正式に移された。連隊本部の他、鉄道兵の教育や鉄道器材の修理を行う材料廠、演習用の作業場なども設けられた。

 以降、この地は鉄道連隊の拠点として大きな成長と発展を遂げていくことになる。

 ちなみに中野の跡地にはその後、諜報機関員の養成学校である「陸軍中野学校」などが設立され、こちらも新たな歴史を歩んでいくことになる。

「また兵隊さんが運転しているな」

 椿森には連隊本部と、第一・第二鉄道大隊の8個中隊が置かれ、津田沼町には第三大隊の4個中隊が設けられた。応召者の中には、もともと鉄道関係の仕事をしていた者や、鳶職、土木関係者、大工なども多く含まれていたとされる。

 こうして、この地では鉄道の運行や整備に関する訓練、演習などが盛んに行われるようになった。自治体側の期待通り、街自体も急速な発展を遂げていった。

津田沼にあった鉄道第二連隊の航空写真。上部を走るのが総武本線、左端が国鉄津田沼駅(昭和8年ころ、鉄道第五連隊戦友会『栄光の鉄道部隊記録写真集』より)

 鉄道連隊の兵士たちは、鉄道省(後の運輸省)に派遣されるかたちで、近隣の一般路線で運転の訓練をすることもあった。訓練中の身のためであろう、その運転技術は鉄道省の運転士よりも劣る場合が多かったようで、総武本線では発車や停車が滑らかでないと、乗客たちが「また兵隊さんが運転しているな」と思ったという逸話が伝わっている。

軍用津田沼駅に並んだ装甲軌道車隊(昭和8年ごろ、鉄道第五連隊戦友会『栄光の鉄道部隊記録写真集』より)

 新たな演習線の敷設も進み、明治44(1911)年には津田沼~千葉間、作草部~四街道間が完成。当時、津田沼~千葉間にはすでに海岸線を走る総武鉄道があったが、それとは別に鉄道連隊の演習用の路線が内陸部の陸軍施設を縫うようにして敷かれたのである。この演習線は「習志野線」と呼ばれるようになった。演習線はその後も各方面へと拡張されていく。

 さらに以降、千葉県下では新たな県営鉄道の開業が続くが、これらの建設にも鉄道連隊の協力があった。「演習を兼ねた建設」というかたちで、地方自治体が運営する日本初の路線である千葉県営鉄道は路線を延ばしていった。千葉県営鉄道では建設だけでなく、その運営や運行をも鉄道連隊がその土台を担っていた。現在に連なる千葉県内の充実した鉄道網の背景には、戦前における鉄道連隊の努力があった。