「志願した積りはない」鉄道兵の悲哀
鉄道連隊は陸軍の工兵科に属し、具体的な主な軍務としては、鉄道の新たな敷設、鉄道の維持管理と運行、敵の攻撃によって破壊された鉄道の復旧などがある。とりわけ前線部隊への兵員や物資の輸送には、大きな責務を担うこととなった。
とはいえ、当事者たる鉄道兵らが抱く鉄道連隊への所感には、様々なものがあったようだ。当時の最新鋭の技術である鉄道にかかわる軍務ではあったものの、その思いは複雑だった。後の第十八軍参謀長である吉原矩は、工兵少尉として鉄道連隊付だった経歴を持つが、彼は当時のことを後にこう回想している。
〈私は幼年学校卒業時鉄道隊と指定された。鉄道隊に就いて皆目知らない私は、鉄道隊は工兵の皮を被っているが、あれは輜重兵ではないか。非戦闘部隊になるため武学生を志願した積りはない。此際軍人をよそうかと思って中隊長に異議を申し立てた〉(『鉄道兵回想記』)
輜重兵とは、輸送や補給を軍務とする兵のことである。当時の日本社会の雰囲気として、輜重兵を軽んずる向きは確かに存在した。「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶やとんぼも鳥のうち」と揶揄された時代である。
先の吉原の文面からは、重要な役目であるにもかかわらず、軽視されることの少なくなかった鉄道兵の悲哀が滲む。
第一次世界大戦と「手押し人力鉄道」
大正3(1914)年には第一次世界大戦が勃発。日本はドイツの租借地である山東半島に出兵した。鉄道連隊も臨時の編成を組んで現地に赴き、野戦のための新たな線路の敷設などに注力した。創設以来、鉄道部隊が「教科書」としてきたドイツ軍との皮肉な対峙であった。
最前線における蒸気機関車の使用は、吐き出される煙によって敵の標的となる懸念があるため、「手押し」による人力鉄道が採用された。すなわち、小さな台車などを人が押して進む「人車鉄道」である。当時、日本国内にはこうした鉄道が存在していたが、これを戦場で採用し、最前線と後方を結んで往復させたのである。
様々な兵器や弾薬を乗せた台車を実際に押したり引っ張ったりする「車両押手」は、現地で雇用された作業員たちが主であった。1台の台車につき、2名の車両押手が付く。ただし、勾配の激しい区間では、3名に増員された。さらに、運行を管理する鉄道兵が1個分隊につき2名、貨物の宰領者として兵員が2名、付けられた。
運行速度は荷物を積んだ「実車」で1時間に3キロ、荷物を積んでいない「空車」の場合、1時間に4キロが標準とされた。下り坂などにおける台車同士の衝突事故を防止するため、台車の間隔には充分に注意が払われた。
時には負傷した兵を乗せて運んだこともあったという。その他、停車場や車庫、木橋なども設置された。
敵からの攻撃を避けるための人力鉄道だったが、それでも襲撃に遭うことも少なくなく、そのため夜間の輸送も行われた。トロッコが途中で破損するといった事故も多く、困難な軍務となったが、地道な作業の積み重ねにより、総じて輸送は順調に進んだ。
山東半島における人力鉄道の路線は約150キロにも及び、1日に約140トンもの軍需物資を運んだ日もあったという。鉄道兵らの大変な努力が偲ばれる。
この人力鉄道では、日露戦争時の旅順攻略戦で活躍した28センチ榴弾砲も「手押し」で輸送。大正3(1914)年、ドイツ軍が誇る青島要塞は陥落した。日本にとってこの戦いは、日清、日露に続く戦勝であったが、こうした結果の背景には、やはり鉄道部隊の隠れた尽力があった。
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ノンフィクション作家・早坂隆氏が、鉄道連隊の謎を解き明かす連載「日本陸軍『鉄道連隊』の研究」第2回全文は「文藝春秋 電子版」に連載されている。
■連載「日本陸軍『鉄道連隊』の研究」
第1回 なぜ新京成電鉄はクネクネと走るのか…そのカーブには日本の近現代史が凝縮されていた
第2回 手押しで動く「人力鉄道」「武装列車」で露と対決…鉄道が〝最新兵器〟だった時代 ←今回紹介した原稿はこちら
第3回 25歳鉄道兵は“中国の暴走貨車”を脱線させて「軍神」になった〈満洲事変秘話〉