1995年、シンガーソングライターの織田哲郎氏がプロデュースしたシングル「夢見る少女じゃいられない」で鮮烈なデビューを果たした、歌手の相川七瀬さん(49)。1996年に発売したデビューアルバム「Red」はミリオンセラーを記録し、年末の紅白歌合戦に出場。その後も、数々のヒット作を世に送り出してきた。
そんな相川さんに、デビューの経緯や、相川が「人生で最初に信用した大人」だと話す織田哲郎氏との関係性、スターダムを駆け上がっていた当時の心境などを聞いた。(全3回の1回目/2回目に続く)
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「この写真、君じゃないよね」織田哲郎さんとの出会い
――中3の時に応募したオーディションで織田哲郎さんと出会ったことが、相川さんの人生を変えるキッカケになるわけですが、もともと歌手になりたかったのですか。
相川七瀬さん(以下、相川) なりたかったですね。幼稚園の頃は、西城秀樹さんがすごくかっこいいと思って、大好きでしたし、その後は工藤静香さんに憧れて、静香さんの歌をずっと歌っていました。中学に入ってからも歌手になる夢を持ち続けていたんです。
でも、母に「中学の3年間、歌手になるために挑戦してもいいけど、それでダメだったら諦めなさい」と言われて、最後の挑戦となったオーディションで織田さんに出会いました。
――織田さんの最初の印象は、どうだったのでしょうか。
相川 オーディションは友人と一緒に受ける予定だったので、友達が私の履歴書と写真もまとめて郵送してくれたんです。でも、本番当日、審査員の織田さんに「この写真、君じゃないよね」と言われて(苦笑)。友人はその日に来れなかったんですけど、応募用紙には私ではなく、友人の写真が間違って貼られていたんです。
私は、そんなことも気にもせず、「嵐の素顔」(工藤静香)を歌ったのですが、オーディションに落ちてしまって……。織田さんは、私が静香さんの歌を叫び倒してた、といつも言ってますが(笑)、その時、私のことを「おもしろい子」と思ってくれたようです。
オーディションから1年後、織田さんから連絡が
――中学卒業後、高校に入学してから歌手になる夢は諦めたのですか。
相川 本当にすっかり諦めていました。その後、普通に高校生活を送っていたのですが、オーディションから1年後、織田さんから連絡が来たんです。でも、1年も経過していたので、織田さんの顔を思い出せなくて……。
とりあえず大阪に来てくださるというので、母と一緒に会いに行きました。その時、「『履歴書の写真、間違っているね』と言った人だ!」と思い出しました(笑)。織田さんからは、新プロジェクトでシンガーを探しているから、やってみないかというお話をいただきました。でも、歌手を諦める決心をして1年が経過していたので、「じゃあやります」とすぐには言えなくて。最初はお断りしたんです。