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――「夢見る少女じゃいられない」を最初に聞いたときの印象は、どうだったのですか。

相川 デモテープを聞いた時から、かっこいいなって素直に思いました。自分じゃなくて他の人が歌っても爆発的なヒットになるんじゃないか、というくらいデモからインパクトがありました。

 歌を入れる時、私は歌い方を知らないので、織田さんにディレクションをしてもらいながらレコーディングをするんですけど、「腹に力を入れて歌え」とよく言われたりしました。

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 織田さんはディレクションで抽象的な言葉を使うことが多くて、「パリッとお願い」「ブリッといこう」みたいなことを言うのですが、私はそのニュアンスを自分なりに汲み取って、少しづつ歌えるようになっていきました。

 

「取り巻く人達が全員いなくなるかもしれない」大ヒット後に感じていた不安

――デビュー曲がヒットした後、ご自身の世界は変わりましたか。

相川 自分自身は変わらないけど、“世の中の自分”が大きくなったのは感じました。でも、寂しさもありましたね。

 ツアーで数千人の前で歌い終わった後、ホテルに帰るじゃないですか。それからみんなは打ち上げとかに行くんですよ。でも私は声の調子が悪くなるといけないので、部屋にひとりでポツンと残されて……(笑)。

 当時は、まだひとりで何かを楽しめる余裕とかなかったので、なんか寂しさを感じていました。きっと、子どもだったんでしょうね。

――96年にはファーストアルバム「Red」をリリースし、270万枚という驚異的なセールスを記録。5枚目のシングル「恋心」はミリオンセラーとなり、年末の紅白歌合戦にも出場しました。大きな成功を手に入れたわけですが、ご自身の中で充実感はあったのでしょうか。

相川 すごく充実した豊かな時間を得られた実感はありましたけど、私の周囲がすごい勢いで動いている中で、私は毎日のタスクを乗り越えていくことがやっとでした。

 でもある時、「ちょっと待てよ。今は注目を浴びて、仕事が軌道に乗っているけど、うまくいかなくなったら取り巻く人達が全員いなくなるかもしれない」みたいな不安が押し寄せて。このまま誰かがいないと行動できない自分になるのは危ない。このままでは私はひとりで生きていけなくなる。そう思って、23歳の時にお休みをもらいました。

――オフをもらって何をしたのですか。

相川 ドイツに一人旅に出ました。ドイツではホテルとか移動とか、全部自分でやって、大冒険でしたが、すごく楽しかったですね。そこで、初めて自分はちゃんとひとりでも生きていける、と思えた。そのおかげで帰国してからもひとりで旅に出たり、いろんなことに挑戦するようなマインドになったんです。あのドイツでの経験が、その後の自分の人生を生きていくうえでの自信と勇気になりました。

撮影=志水隆/文藝春秋
スタイリスト=RYO