「私のこと大好きなんだなぁと…」織田哲郎さんとの知られざる秘話
――東京に勝負をしにいくわけですが、怖さはなかったのですか。
相川 何も怖くはなかったです。子ども心に自分が生きていける居場所を求めていて、誰も自分のことを知らない世界に行って、やり直したいという欲求が強かったのもあります。
自分が自分らしく生きていくためにどうしようって考えた最大のチャレンジが、歌手になることでした。だから親元を離れて、東京に行くことに何のためらいもなかった。母親もそこは不思議と怖がっていなかった。普通だと、だまされているんじゃないのとか心配しますけど、よく100%疑いを持たないで織田さんに預けたなと思います。
――織田さんのことは信じられたのですか。
相川 織田さんは、家族とギクシャクしていた多感な時期の私のことも、しっかり見てくれていたんです。夜、悩みごとがあって電話をすると、真剣に聞いてくれるんですよ。
あれだけヒット曲を作っている凄い人なのに、誰に対しても同じ目線で話をしてくれることに、人間として尊敬しました。
それに、何よりも織田さんが作った曲が素晴らしくて、こんなに素敵な曲を作っている人が、自分を選んでくれたことが嬉しかった。この人と一緒に何かできるなら、すべてを置いてでも行きたいと思いました。今思い返せば、私が人生で最初に信用した大人が、織田哲郎という人だったんです。
――織田さんに「なぜ私を選んだのか」と聞いたことはありますか?
相川 私の何がいいのか、好きなのか、分からないですね(笑)。今でも年1回は、お互いに生存確認をする会を開いているんですけど、それが先日あったんですよ。
その席で織田さんが、「おまえ、國學院大學のチアリーディングの格好してたよな。俺、その写真を見たときに『真ん中の子がかわいいな』って思って、スマホで写真を引き伸ばしたらお前だったよ」と言ったので、みんなで大笑いして。織田さん、私のこと大好きなんだなぁと思いましたね(爆笑)。
「夢見る少女じゃいられない」のデモテープを聞いた時の印象
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1995年11月、相川は「夢見る少女じゃいられない」でデビューを果たした。「ダークで前向きじゃないロック」という織田の作風は、相川の個性とハイトーンの尖ったボイスにマッチし、デビュー曲として大きな成功を収め、最高のスタートを切った。
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――デビュー曲を決めるにあたり、織田さんと話し合ったり、何かを決めたりすることはあったのでしょうか。
相川 一切、なかったです。すべて織田さんが決めていました。織田さんが私のことを理解しているので、作って下さった曲の世界の主人公は、すべて私なんです。
だから、格好つけたり、演じたりする必要が全然なくて、ありのままの自分を出すだけで良かった。私にとって、それはとても幸運でしたね。