ロンバケ、コギャルにアムラーが世に浸透した1996年。奥田民生プロデュースにてデビューしたPUFFYは、1stシングルから4曲連続でミリオンヒットを達成するなど、瞬く間に活躍の場を広げていきました。

「カニ食べ行こ~」「北京 ベルリン ダブリン リベリア」とインパクトの強い曲に加え、明るく親しみやすいキャラクターも魅力的な二人。同性のファンも多く、時を経てもなお、幅広い世代からますます愛され続けています。

デビュー当時のPUFFY

 デビューから25年、はじめて出会った瞬間から今に至るまで、彼女たちはどんな変化を経てきたのでしょうか。近頃私たちはいい感じ、今の私たちもいい感じ……のPUFFYの二人に話を聞きました。(全2回の1回目/後編に続く

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「PUFFYとして長く活動するとは思ってなかった」

――お二人は96年に『アジアの純真』でデビューされましたが、当時の音楽業界は小室ファミリー全盛期でもありました。その頃、何か意識されていたことはありますか。

大貫亜美さん(以下、亜美) そもそも民生さんが「小室さんみたいにプロデューサーになりたい!」って言ったところからPUFFYは始まっているので、我々は“小室派”を目指してました(笑)。小室さんプロデュースの方々とテレビ番組で一緒になると、皆さん衣装が綺麗で煌びやかだったので、いいなって感じることもちょいちょいありましたね。

――デビューの頃、目標とされていた方などはいらっしゃいましたか。

吉村由美さん(以下、由美) いないかもですね、そういえば。そもそも当初は、PUFFYとして長く活動するとは思ってなかったんですよ。誰しもがファーストミニアルバムの単発で終わる意識で作っていたはずなんです。それが気づけば、誰にも辞めろとは言われなくて、25年経っちゃった。

デビュー25周年のアニバーサリーライブ

――ここまでメジャーになる予定ではなかった?

亜美 はじめからこういう仕事をしたかった二人ではない……と言ったら、誤解を生むかもしれないですけど、「ちっちゃい頃から夢だったんです!」という感じではなかったんですよ。気付いたら四半世紀経っちゃったという感覚で。

デビューのきっかけは?

――そんなお二人のデビューのきっかけは何だったのでしょうか。

亜美 私は、学生時代はCAさんかホテルマンになりたくて、英語の勉強をしていました。そのときに、友達に誘われてバンドを組むことになって。それもソニーにデモテープを出すためだけに組んだバンドで、テープも1回しか送らなかったから、そんなに熱心にやっていたわけでもなかったんです。でも、それでソニーの人から声を掛けてもらったので、「じゃ、お願いしまーす」みたいな感じですね。

由美 私は、たまたまソニーが開催したオーディションがありまして、そこで準優勝したんです。受けておきながら未だに何だったのか分からない、18歳まで受けられる謎のキャラクターオーディションみたいな。今考えたら怖くて、やっていることも、内容もよくわからないんですけど、準優勝とか優勝すると、うちの会社と契約することになっていたんですね。