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 江戸川や坂川といった河川に恵まれる宿場町の松戸は、舟運で栄えた歴史を持っている。江戸時代には銚子で水揚げされた魚が松戸まで運ばれ、ここで江戸川をゆく船に積み替えられて江戸は日本橋の魚市場まで輸送されていた。明治に入っても舟運の町としての存在感は衰えず、内国通運による蒸気船も運航されている。

 そして、1896年には現在の常磐線松戸駅が開業する。古くからの物流拠点だったことが、駅の設置の理由だろう。ほどなく松戸を巡る物流は船から鉄道に変わり、駅と旧宿場町を中心に市街地が発展する。件の相模台の工兵学校もそうだし、1909年には駅の南東側に園芸専門学校が開校した。いまでは千葉大学園芸学部となった、日本で唯一の園芸専門の学校だ。

 

市街化が進む松戸近郊で発見された「予想外のもの」

 このようにして松戸駅周辺の市街化が進む一方で、まだまだ郊外はのどかな田園地帯。1888年、松戸市郊外で松戸覚之助という13歳の少年がみずみずしくも甘い実の成る木を見つけている。野生の二十世紀梨の発見である。

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 ここから松戸や船橋といった下総台地での梨の生産がはじまり、また1904年には二十世紀梨の苗木10本が鳥取に渡った。松戸は梨の町でもあるのだ。

 戦後になると、こうした牧歌的な郊外には大規模な団地が建ち並ぶ。爆発的な人口増加によって東京都心が住宅地としては限界を超え、江戸川を渡ってすぐそこの松戸にまで住宅地の波が押し寄せてきたというわけだ。ただ、この時期には商業地としての発展は松戸よりもむしろ柏の方が進んでいたという。

 

松戸と柏、ほど近いふたつの町の「差」を分けたもの

 松戸は古くからの宿場町にして舟運の拠点だったが、いかんせん中心市街地の平地が狭かった。それに対して、もともとは宿場町でもなんでもなかった柏には広大な開発の余地があった。それが差を分けたのだろう。

 もちろん松戸も柏に先行されて安穏とはしていられない。逆転に向けた乾坤一擲の大勝負として、密集市街地が形成されていた駅周辺の再開発が行われた。そのひとつが、いまでは「キテミテマツド」という複合商業施設になっている松戸ビルヂングだ。