日本映画のスタジオシステムが崩壊して以降、映画会社の社員になって監督を目指す道は絶たれた。いま日本映画界を第一線で支える映画監督たちには、8ミリ映画を自主制作し、才能を見出され、商業映画にデビューした者たちが少なくない。

 そんな日本映画の「青春時代」を自身も自主映画監督である小中和哉が聞き手として振り返る、映画ファン必読のインタビューシリーズ開幕! (全4回の1回目/2回目に続く)

◆◆◆ 

ADVERTISEMENT

8ミリ作家たちはどのように日本映画界を変えていったのか

 その昔映画監督になるためには、映画会社に就職して助監督になり何年も下積みをするしかなかった。8ミリや16ミリフィルムによる自主映画は作られていたが、その作家たちがプロの映画監督になることはなかった。

 その壁を打ち破って『ハウス』(1977)で大林宣彦監督が商業映画デビューし、『オレンジロード急行』(1978)で大森一樹監督が続いた。そして80年代に入ると8ミリ自主映画は勢いを増し、8ミリ映画作家が商業映画に続々と進出していった。現在、日本映画界を背負う監督たちに8ミリ出身者は少なくない。

『星空のむこうの国』(1986)でデビューした僕(小中)もその一人。僕もその渦中にいた8ミリ自主映画ブームの頃を振り返り、8ミリ作家たちがどのように商業映画に挑み日本映画界を変えていったのかを明らかにしていきたい。

 最初に登場していただくのは、日大芸術学部の卒業制作作品『狂い咲きサンダーロード』(1980)を商業映画としてヒットさせた石井岳龍(旧名・石井聰亙)監督である。

石井岳龍監督 ©深野未季/文藝春秋

いしい がくりゅう 1957年福岡県生まれ。日大芸術学部に入学後、『高校大パニック』で8ミリ映画デビュー。

 

 78年、『突撃!博多愚連隊』がぴあフィルムフェスティバルに入選。主な作品に『狂い咲きサンダーロード』(80年)、『爆裂都市 BURST CITY』(82年)、『逆噴射家族』(84年)、『水の中の八月』(95年)、『五条霊戦記 GOJOE』(2000年)、『生きてるものはいないのか』(12年)、『パンク侍、斬られて候』(18年)など。

 

 2010年、旧名の石井聰亙から改名した。2024年には長年の企画であった安部公房原作の『箱男』が公開予定。

浪人時代に培った志

――石井さんが8ミリ映画を作り始めたのはいつ頃からですか?