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作った時よりも見ていただいた瞬間にエクスタシーを感じた

――映画をやってみて、その思いは変わりました?

石井 映画を一本一本作っていくことでそれで次に進めるといいますか。映画ですから上映を何回も繰り返して、しかもお客さまがそれを見て、一緒に何か反応するという。

 それによって自分の孤立した感情が他者とつながれるということを初めて知りました。それまでずっといろんなことを試したけれど、自分は何をやっても駄目だという思いしかなかったので。

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石井岳龍監督 ©深野未季/文藝春秋

 だから最初に映画を作った時…作った時よりも見ていただいた瞬間ですけどね。その年の確か10月、日芸の文化祭の時に初めて上映をしたんですけど、その時にお客さんが反応しているのがすごく分かったんです。

 初めて自分の創作に他者が、他人が反応している。しかも、明らかに心動かされているのが分かったので、その時の「何かが通じた」というエクスタシーというかな。

上映会での喜びはすごく大きい

――それまでの音楽などでは味わえなかったものが、映画で感じられたんですね。

石井 全く何もできなかったし、表面では明るくふるまっていましたが非常にコンプレックスが深い人間だったので。自分が考えていることとか言いたいことをちゃんと伝えられないという思い、言葉にできない感情をいつも抱えていましたので。

 映画を作った時に初めて何か吐き出せたといいますか、手ごたえを初めて感じたんです。

――日芸の文化祭で初めて上映した時のお客さんはどんな反応だったんですか?

石井 やっぱり最初に「おーっ」と驚いたりとか。黙ってじっと見るという感じじゃなかった。

――場内が沸いたみたいな感じ。

石井 スピルバーグの『フェイブルマンズ』、あれの描写にもありましたけど、上映会をやって、みんながワーッと。あれですよね。あの喜びはやはりすごく大きいと思うんです。

 

※注1 大屋龍二 8ミリ版『高校大パニック』(1976)、日活版『高校大パニック』(1978)、『突撃!博多愚連隊』(1978)プロデューサー。『神の堕ちてきた日』(1979)監督。

※注2 狂映舎 石井聰と大屋龍二が設立した自主映画製作グループ。

※注3『ぴあ』 1972年創刊の情報誌。映画館と同様に自主映画の上映情報も掲載された。1977年からはぴあフィルムフェスティバル(PFF)を開催し、8ミリ作家を育成。