著者の井上氏は日本建築史を本業としながら、女性論や関西論など幅広いテーマの著書をもつ。本書は日本古代の英雄ヤマトタケルが女装して九州熊襲(くまそ)の川上タケルを暗殺した事績が、後世どのように語り継がれてきたかをあつかう日本文化論。
ヤマトタケルノミコト(『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と表記)は皇統譜第12代景行天皇の皇子。父の天皇に命じられて日本各地に巣くう敵対勢力討伐に東奔西走する。いまの静岡県内で火攻めをされ、刀で草を切って向かい火を起こし身を守ったエピソードが特に有名で、その刀は草薙剣(くさなぎのつるぎ)として熱田(あつた)神宮(いまの名古屋市内)に収められ、三種の神器の一つとなっている。
本書の構成は、第1章「牛若か義経か」、第2章「ヤマトタケル」、第3章「変奏曲」、第4章「スサノオ」、第5章「熱田神は楊貴妃に」、第6章「大江戸美少年伝説」、第7章「大日本帝国の軍人たち」、終章「多様な性と異性装」となっている。
博識の著者が古今の史料を縦横無尽に駆使しつつ、ヤマトタケルの暗殺行為がどのように描かれてきたかを、それぞれの時代の特性に絡めて論じ進める。
ヤマトタケルは古くは草薙剣の使い手として語られた。ところが17世紀後半には女装の英雄として見られるようになる。18世紀後半の本居宣長は女装に宗教的な意味を読み込み、近代の学術研究に引き継がれた。この主線と並行して、源義経伝説についての諸相と変遷、唐の日本侵攻を防ぐために熱田神が楊貴妃となって玄宗皇帝を蕩かした話、旧日本軍のなかで行われていた女装による余興の実話などが盛り込まれていて、それぞれに興味をひく。
著者は言う。「同性愛や異性装を嫌悪する。日本社会がその度合いを強めたのは、欧米にならったせいである。……同性愛をにくむ人たちは、その意味で、けっこう近代的であり西洋的なのである」と。
著者は中国からの留学生が女装による騙し討ちに共感しないと紹介し、そこに日中両国の英雄観のちがいを見る。しかし中国思想研究者たる私の見解では、この留学生の感性も近代的・西洋的である。中国にも異性装の伝統がある(武田雅哉著『楊貴妃になりたかった男たち』講談社刊)。
ところで、スサノオのヤマタノオロチ成敗や源頼光(よりみつ)の酒呑童子退治は相手に酒を飲ませて酔いつぶれたところを襲っている。宮本武蔵はわざと定刻に遅れて佐々木小次郎をいらいらさせる心理戦をとった。わが国には正々堂々と敵に正面から立ち向かわない英雄が多い。
これは有史以来ずっと西に超大国と接する地政環境において、絶対まともに戦ってはならないという民族の知恵かもしれない。ゆめゆめこの遺訓を忘れるなかれ。
いのうえしょういち/1955年京都府生まれ。国際日本文化研究センター所長。専門の建築史・意匠論のほか、日本文化や美人論、関西文化論など、研究分野は多岐にわたる。『つくられた桂離宮神話』、『南蛮幻想』、『京都ぎらい』など著書多数。
こじまつよし/1962年群馬県生まれ。東京大学文学部教授。著書に『中国思想と宗教の奔流』『義経の東アジア』などがある。