そんな話を涙ながらにされたが、俺は何が起きているのかもわからず、どこか他人事の気分で聞いていた。姉は寂しそうだったが、俺はとくに哀しいとは思わなかった。
初日こそ肘の高さまでスッポリ入る落とし穴に落とされる、という手荒な歓迎を受けたが、施設の暮らしは思ったよりも悪くなかった。何よりも一日三食、ちゃんと食べられるのはありがたかった。
施設では朝6時半に起床し、夜9時には消灯する(小学生時)。規則正しい生活を送るうちに、自然と俺も学校に行く習慣が身に付いた。そうした日々を送るうちに、幼いながら「変わらなきゃいけないんだ」と思ったのを覚えている。
職員の方が親身になって教えてくれたこともあって、一年のブランクがあった勉強もなんとかついていけるようになった。施設の職員の方たちは子どもたちに愛情深く接してくれた。いまの俺が「真面目な人柄」「イメージよりもちゃんとしている」と言ってもらえるのは、施設の職員の方たちの献身的な支えがあったからだと思う。
施設の思い出で一番嬉しかったのが、ソフトボールをさせてくれたことだ。
施設では小学生のうちは習い事はさせないという方針だったが、熱心に頼み込んだ結果、小学6年生のときに用具を揃えてソフトボールを始めさせてくれたのだ。そうして進学した中学では野球部に入部。高校まで引き続き野球を続けた。
中学までは、同じ施設から通う同級生が2人いた。彼らがいたから、施設で暮らしていることに対してコンプレックスを抱くことはあまりなかった。だが、中学卒業後、2人は就職して施設を出て行ってしまった。
「お前の母ちゃん、ぜんぜん顔が似てねえな」
高校からひとりになった俺は、急に施設にコンプレックスを覚え、施設のことを隠すようになった。高校生活は楽しかったが、クラスメイトとふざけているときも、どこかで俺はみんなとは違うという思いを抱えていた。たとえば授業で親に感謝の手紙を書くという課題が出されたとき、クラスメイトたちは自分の親をイメージして書いているが、俺は母ではなく、施設の職員に宛てて書いていた。授業参観のようなイベントがあると、俺が寂しがらないように施設の職員がきてくれたが、
「お前の母ちゃん、ぜんぜん顔が似てねえな。それに、めっちゃ若くねえ?」などといじられて、冷や汗をかいたりすることもあった。
そんな俺の支えになっていたのが、野球だった。
俺の高校の野球部は、それなりに名前が知られた強豪だった。走り込みを基本とする厳しい練習メニューが連日組まれており、学問も怠ってはならないという方針。部活動を通じ、人としてのあり方について考え、礼儀を身につけさせるという、昔ながらの体育会系な雰囲気を残していた。
たとえば、学校生活で部員が何かトラブルを起こすと、連帯責任で部員全員に罰走が課されたりする。あまりの厳しさに、泣きながら走っていた部員もいたぐらいだ。
文武両道が掲げられていたことからそれなりに勉強もしたが、当時を振り返ると思い出すのは野球のことばかりだ。