タカハシに金を渡した帰りの電車の中で、俺は震えていた。今日会っただけの、見ず知らずの相手に大金を渡してしまったという不安が、急に襲ってきたのだ。
60万円は、当時の俺にとってとてつもない大金だった。それだけの額を貯めるために、いったいどれだけバイトをしてきたかわからない。そんな大切な金を、素性の知れない人間に、会ったその日に渡してしまったのだ。
勧誘したその日のうちに金を回収する、というのは悪徳マルチのよくあるパターンだ。ターゲットは一度帰ると、冷静になる。そうなると勧誘が成功する確率は格段に下がるので、ターゲットが混乱して冷静さを欠いているうちに話をまとめて、金を引き出すのが詐欺師の常套手段なのだ。
お決まりのフレーズが繰り返される「マルチ商法のセミナー」の内容
金を渡してからしばらくして、俺はタカハシに誘われて組織のセミナーに参加した。会場は、名古屋の栄にある雑居ビルの貸し会議室だった。
中には30人くらいはいただろうか。
大部分の参加者は、俺のように紹介者に連れてこられて参加しているようだった。
気になったのが、後方に座るスーツの男たちだ。
彼らは説明役の上司なのか、壇上に鋭い視線を向けており、ここぞというタイミングで拍手をしたり、歓声をあげたりする。俺にはそれが妙にわざとらしく思え、聴いているうちに薄気味悪くなってきた。
セミナーの内容は、当時の俺から見ても大したことがないものだった。
「日本の銀行預金の利息はわずか0.001%」
「それに比べて、物価は2.6%上がっています」
「お金は寝かせておくと、どんどん価値が減っていきます」
「お金を増やしたいなら、このビジネスに参加するしかない」
そうしたお決まりのフレーズが繰り返される。別に凄くもなんともないのに背後から聞こえる拍手や歓声……、盛り上がる会場をよそに俺はどんどん冷めていった。
色々なマルチや詐欺集団に潜入してきた今なら、このビジネスの不審な点はすぐにいくつも思い当たる。
・ハワイという現場確認ができない場所におけるビジネス
・収支等の事実確認が困難
・取引の際に書面の交付がない
などは、これぞ悪徳マルチ商法といったポイントだ。