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 同時に淡路島を望む景勝地でもあり、京から西に落ちてきた平安貴族にとっては、望郷と悔恨が入り交じる特別な地だったのだろう。そのあたりは、『源氏物語』にも書かれている。

 時代は下って中世以降も畿内の入り口という存在は変わらず、そのおかげでたびたび戦の舞台になった。明石を押さえれば畿内の入り口を押さえることになるのだからとうぜんだろう。

 江戸時代に入ると明石藩には譜代大名が入ることになり、西国の有力大名に対する押さえの役目を託される。そして、江戸時代を通じていまの明石の中心市街地が形作られていったのだ。

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港町の雰囲気と「汚すぎてもダメだが、キレイすぎてもダメ」

 いまでも中崎からその周囲まで、海沿いは港町らしい町並みが続いている。中崎の西側には昔ながらの釣り船屋が軒を連ね、岩屋神社という古社もその中に。昔ながらの町並みは、この地域の港町としての歴史を感じさせるものにほかならない。

 

 播磨灘ではタイやタコ、穴子にイカナゴなどがよく獲れて、それらは西国街道を通じて大坂などに運ばれると同時に魚の棚でも売られていたのだろう。

 近代以降の明石は、どちらかというと工業都市としての側面が強い。市西部には戦前から軍需工場が進出し、戦後も神戸製鋼や川崎重工などが進出している。こうした背景があったからか、戦時中には空襲被害によって中心市街地が大きな被害を受けたこともある。

 それでも明石駅や明石城(明石公園)周辺の中心市街地は、古くからの“港町・明石”の雰囲気を色濃く残し続けて、いまに続いているのだ。

 近年、播磨灘では不漁が続いているという。ひと昔前は工業排水などによる水質汚染が原因だったが、最近はその反動で海がキレイになりすぎて魚のエサになる栄養素が不足しているのが理由だそうだ。

 

 汚くてはもちろんダメで、キレイすぎてもダメというのはなかなか難しい。港町・明石の町並みがいつまでも続くかどうか。もしかすると、いまはその分かれ目にあるのかもしれない。

写真=鼠入昌史