1ページ目から読む
4/5ページ目

アーケードを抜けると目抜き通りに出る。これを進むと見えてきたのが…

 魚の棚の東の端でアーケードを抜けると、明石銀座通りという駅前からまっすぐ南に通じる目抜き通りに出る。

 この目抜き通りを進んでゆくと、すぐに船溜まりが見えてくる。錦江橋という立派な橋の両脇に、所狭しと並ぶ船。奥まったところに船なんか、いったいどうやって海に繰り出すのだろうかと心配になるほどだ。この船溜まりの一角には、淡路ジェノバライン、つまり淡路島と明石を結ぶ船ののりばも設けられていた。

 

 錦江橋の先は、“中崎”と呼ばれる小さな島になっている。大きなマンションがいくつも並んでいて、ベッドタウンとしての明石のシンボルのような存在なのだろうか。播磨灘に突き出た小さな島だから、もちろん埋立地だ。

ADVERTISEMENT

 ただ、歴史的には実に古く、江戸の昔に明石港を整備する際に、浚渫した土砂を使って堤防代わりに設けられたものだ。明治~昭和初期にかけては、明石の遊郭街もこの島の中にあったという。

堤防の向こう、すぐ手が届きそうなところに見える島。あれは…

 この島をぐるりと歩いて、海を見る。堤防の向こう、すぐ手が届きそうなところに淡路島が見える。まったく目と鼻の先といっていい。そして、淡路島と明石との間の激しい海流とそれによって好漁場として発展したという播磨灘。明石の町は、眼前の播磨灘の恵みによって、港町として発展した都市である。

 

 明石の町の歴史は古い。旧石器時代の化石人類であるとされる“明石原人”の骨が見つかったこともある。古代には明石が“畿内”の西の端とされていた。すなわち、西から見れば畿内の入り口にあたり、京の都から見ればいよいよ本格的に都落ちを実感する場所である。