名前がついた初のレギュラーは『戦闘メカ ザブングル』(82年)に登場する「だわさ!」が口癖の活発な少女・チル。特徴的な声が印象に残ったというファンは多い。斯波氏が音響監督を務めた宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』(84年)、『天空の城ラピュタ』(86年)、『となりのトトロ』(88年)にも脇役として出演している。
とはいえ、声優の仕事では食べていくことができなかった。もともと貧乏生活を送っており、専門学校時代に住んでいたのは、家賃1万円の3畳1間のアパート。事務所に所属すると6畳1間にランクアップしたが、スーパーマーケットの試食販売やコンビニエンスストアの店員、交通量調査など、あらゆるアルバイトをこなして糊口をしのいだ。後に、声優志望の若者に相談されたときは「びんぼー大丈夫ですか?」と尋ねるようにしていた(『笑う数ほど福が来る』ポリスター)。
シンガーソングライターとしてデビューしたのは83年。オリジナルアルバムを9枚と子ども向けの企画アルバムを1枚、シングルを4枚発表した。曲の中では、まる子の声とはまったく異なる、のびやかでかすかにハスキーな声を聴かせている。学園祭をまわるなど、ライブも精力的に行っていた。
大嫌いだった自分の「声」と「名前」
声優の仕事ではプロの壁に直面した。最初はマイクの立ち位置さえわからずに右往左往。基本的なことを優しく教えてくれたのは大先輩の神谷明と古川登志夫だった。一方、厳しい言葉を浴びせる先輩もいた。当時としては珍しい横文字の名前のクレジットに文句をつけてきた同業者もいたという。
「先輩方には言われましたよ。『ドヘタなくせに目立ってるんじゃねえよ~』って」「ほんと名前がすごくイヤだった。まる子で売れるまでは、ず~っとコンプレックス」(『山寺宏一のだから声優やめられない! 声優・山寺宏一と30人の声の役者たち』主婦の友社)
唯一無二の個性である声にもコンプレックスがあった。「大っ嫌いでしたずっと」と語るほどだ(文春オンライン 前出)。地声はハスキーで、当時流行っていた女性声優のような可愛らしい声が出せないどころか、声優を始めた頃は子どもの声も出せなかった。せっかく子どもの役がついても「合わないから」と帰されてしまうこともあった(『キネマ旬報』91年1月15日)。