「息子を保育所に入れたときは、緊急連絡先として実家の住所や電話番号を聞かれたのですが、連絡先を伝えたうえで家庭の事情を話し、『息子のことで実家に連絡することはやめて欲しい』とお願いしました。すると、『近くに住んでいるなら両親を頼らないと子どもが可哀そうだよ』というようなことを言われ、それができない私は非難されているように感じました」
丘咲さんは、「自分が生きてることが悪い」と自分を責めて閉じこもるようになってしまった。
生まれて初めて「生きたい」と思えた
その後丘咲さんは、生活保護受給生活を約5年で脱した。
脊髄の難病は、何度か手術を受けていくうちに、徐々に症状が改善。リハビリを受け、動ける時間が長くなっていった。
「息子には、まだ小学生なのに代わりに家事を任せてしまったり、入院中は一時保護所に預けて寂しい思いをさせてしまいました。一刻も早く社会復帰して、息子を人並みに育てていきたいと思っていました」
「複雑性PTSD」の悪化により引きこもってしまった丘咲さんは、「このままではいけない」と思い、少しずつ近所の公園やスーパーに出かけるように。最初の頃はサングラスやマスクをして息子に手を引かれながらだったが、次第に一人でも外出できるようになっていった。
30代半ばで税理士事務所でのアルバイトを始め、36歳のときに税理士の最後の試験にみごと合格。資格を取得した後は大手税理士事務所に勤め独立。さらに2022年には、一般社団法人「Onara」を立ち上げ、「虐待サバイバー」を支援する活動をスタートした。
「今思うと、複雑性PTSDが一番ひどかったのは30代前半のときでした。両親とケースワーカーの3人を殺そうと思って3人分のナイフを用意して、まずは役所の前まで行ったんです。でも1時間くらいして、『あんな人たちのために自分が悪者になるのは嫌だな』と思ってやめました。今となってはもう、過去のことは“いい経験”に変わってしまっているので、両親にもケースワーカーにも恨みはありません。むしろ『ありがとう』って思っています。そういう考え方ができるようになったきっかけは、知人の紹介でメンタルサポートを受けたことでした」
丘咲さんが最も効果を感じたのは、「自分が経験してきた過去のいろいろな場面を思い出して、その時の自分と本音で会話をする」という課題だった。例えば、「あのときお母さんに熱湯をかけられたよね」「熱かったよね、痛かったよね」「誰も助けてくれないのに、一人でよく頑張ったね」「これからは私が私の味方でいるよ」などと、その時の自分がかけてほしかった言葉を自分でかけてあげることで、その時の自分の気持ちに寄り添うのだ。
丘咲さんは半日ほどかけて、物心ついた頃からつい最近のことまで全部を振り返った。すると途中から涙がとめどなく溢れて止まらなくなり、すべてを終えた瞬間に、「生きたい」と思えたという。