一時はエリートと呼ばれ、順風満帆な人生を歩んでいたが、いつしか居場所を求めてさまようことになってしまった「高学歴難民」。

 NPO法人「World Open Heart」の理事長として、これまで加害者家族の支援や講演・執筆活動などに取り組んできた阿部恭子さんが、その実態に迫った『高学歴難民』(講談社)より一部を抜粋。

 CAから検察官への転身を志したものの、思い通りにいかないことばかり。高学歴という「烙印」にも苦しむ相澤真理(仮名・40代)のケースを紹介する。(全2回の2回目/最初から読む)

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母がこだわった「お嬢様」

 私の人生は、25歳まで完璧でした。

 前職は、国際線のキャビンアテンダント(CA)です。採用された時、両親は涙を流して喜んでいました。私は就職が決まるなり、出身大学の広報誌や地元メディアから取材を受けるようになり、人も羨む順風満帆な人生を歩み出しました。

©AFLO

 私は中部地方の、いわゆる「お嬢様学校」と呼ばれる私立の中高一貫校を卒業し、地元の私立大学に推薦入学しました。

 小さい頃から学校の成績は良く、運動会や学芸会でも活躍し、成績表にはいつも「5」が並んでいました。ダラダラするのが嫌いで、宿題でもなんでもすぐ取り組んで完璧にやる子どもでしたから、両親や先生からいつも褒められてばかりいる「いい子」だったと思います。

 私は会社員の父親と専業主婦の母親の下に長女として生まれ、2歳年下の弟がいます。就職して上京するまでは、地方都市で家族4人で生活してきました。

 母は私を「お嬢様」に育てたかったようで、私は幼い頃からピアノやバレエ教室に通わされていました。志望校も母が決めたようなものでしたが、経済的にゆとりのある家庭ではありませんでした。

 父親は高卒で母親は短大卒。父の年収は高い方ではありませんでした。それでもローンを組んで一戸建ての家を買い、子どもたちの教育費を捻出するため、母はいつも頭を悩ませていました。

 私立のお嬢様学校ですから、お金持ちの子が多く、友達は年に一度、家族で海外旅行に行っていました。うちは余裕がなく、旅行と言えば近県の祖父母の家に行く程度で、私は友達と話を合わせるために、海外の事情や空港の様子を調べるようになったんです。それが、CAを目指したきっかけです。

 大学の成績も良好で、氷河期世代の同期たちが就職活動に悪戦苦闘する中、私は難なく第一志望の職種に就くことができました。周囲からは羨ましがられましたが、私にとっては当然の結果と感じていました。

 入社後、私は誰よりも早く出社し、掃除をしたり、仕事を早く覚えたりするように努めていました。休日は語学教室に通い、体力が必要な仕事でもあるので、ジムで体を鍛え、万全に備えていたのです。