「またヴィジュアル面でも満足のいく結果が得られず、それが最後になってしまうのはあまりにも悔しい。だから、まだ辛うじて満足のいくレベルでピアノが弾けるうちに、未来に遺すのにふさわしい演奏姿を収めておけたらと考えて企画を立てたのです」
ナレーションもストーリーもなし、ピアノ演奏のみ
そして坂本は、公の場では最後となるピアノ演奏を行い、「未来に遺すのにふさわしい演奏姿」を『Opus』のなかにとどめた。
『Opus』には、作品の背景を解説するナレーションも、人物の来歴を物語るストーリーもない。
ここにあるのは、純然たるピアノ演奏のみだ。
ありのままの演奏を提示することが作り手の狙いだったのだとすれば、受け手はまっさらな気持ちでその演奏と向き合えばいいだけだし、わざわざ背景や来歴を取り沙汰するのは野暮なことなのかもしれない。
抗がん剤の影響で手足は痺れ、指先にはむくみが
ただ、今年4月に放送されたNHKスペシャル『Last Days 坂本龍一 最期の日々』を観た人なら、このときの坂本がどのような状況に置かれていたかを知っている。
がんが進行し、抗がん剤治療の影響が出はじめたことで、坂本の手足には痺れや痛みがあった。鍵盤を押さえるとき、ペダルを踏むときには、通常はビリッと電気が走るような痛苦があったのでは、と坂本が信頼を寄せた医師のひとりは証言している。
番組では彼自身が撮影した手の写真も披露された。その指先はむくみ、皮膚はところどころ黒ずんでいた。対照的に透き通って美しく、そこだけが生き生きとした桜色の爪。
実際のところ、長時間のコンサートをやり抜く体力はすでになく、そのため1曲ずつ撮影し、最後にひとつなぎにする手法を取ったことは、2022年のオンライン配信の時点で発表されていた。
だが音楽活動を優先したため、副作用の出る抗がん剤治療のスケジュールが先延ばしにされていたことは、番組のなかで初めて明らかになった。
そこまでの決然たる意志をもって、坂本はこのときの演奏に臨んでいたのだ。