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ーーキティに入って早々、安全地帯の担当に?

末崎 キティって、いまで言うベンチャー気質な会社で、何でもやらされたんですよ。だから、挨拶してからは安全地帯が関西でライブするとなるとサポートしましたし。あと、87年に玉置さんがソロでアルバム『All I Do』を出したりして、その頃からメンバーがソロをやりだしたんですよ。

 ギターの武沢さんが、サポート・ミュージシャンの蛎崎(弘)さんと「蛎崎弘+"r"project」を始めたり、もうひとりのギターの矢萩さんが『冒険者』ってアルバムとシングルを出したり。そのプロモーションとか関西でライブをやる際の手伝いをしてたので、みんなのことをよく知るようになったんです。

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 90年代初頭に東京に配属されてからは、楠瀬誠志郎さんとか、高橋洋子ちゃんとか、いろんなアーティストを担当するんですけど、それでも安全地帯のメンバーそれぞれと縁があってずっと繋がっていますね。

ーー安全地帯のサウンドについては、どのように感じていました?

末崎 故郷の風景がしっかりと音に出ているバンドだなって。北海道の広い大地といいますか、サウンドが広い。やっぱり、そこは北海道の人たちですよね。たとえば『ワインレッドの心』ひとつとっても、どこか雄大ですよね。緻密でもありますけど、そこが独特だと思います。

「バンドと言うよりも音楽家族」だというメンバーの関係性

ーーみなさん、お互いの名前をどんなふうに呼んでいるのでしょう。

末崎 玉置さんに対しては、みんな「コウジ、コウジ」って呼ぶんですけど、武沢さんだ け「玉置」って名字で呼び捨て。そこは安全地帯の歴史と関係していて、中学生の頃に玉置さんと武沢さんがインベーダーというバンドを組んで、そこからの付き合いだからなんですね。玉置さんも武沢さんのことは「おっ! 武沢」ですから。 ときどき「武ちゃん」って呼ぶこともあるけど、この2人に関しては盟友同士って感じですね。

 矢萩さんと田中(裕二)さんは、小学校からの仲だったんじゃないですかね。で、六土(開正)さんが思春期ぐらいのときに六土開正バンドってのを組んで、そこに矢萩さん、田中さんが参加して。インベーダーから安全地帯へ名前を変えて、その後に六土開正バンドの3人が加わったんですよ。  

ーーバンド内の雰囲気って。

末崎 フラットな関係性ですね。玉置さんがバンドリーダーだと思っている方って多いと思うんですよ。玉置さんがフロントマンとしてあまりにも目立つので、そう捕らえられがちだけど、基本的にバンドのあれこれを取りまとめているのは矢萩さん。玉置さんが何かを言ったら何かになるってわけではなく、有機的に各自がアイデアを出し合って。みんなが出したアイデアを、矢萩さんが取りまとめるんですよ。やっぱり、そこはバンドですよ。