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「合宿、アルバム制作、ツアーなどを含めて、3年間は一心同体でいました」

ーー合宿は、アルバム制作などに向けて行ったものですか。

末崎 まず、バンドがどうだったのかという説明をしますと、安全地帯は1993年に活動を休止して、2002年に再活動して、2003年に活動を休止してたんです。

 休止していたなか、2008年頃に矢萩さん、武沢さんから、「安全地帯の再活動をしたい。浩二と会ってくれ」と相談を受けまして。それで、六本木のホテルで玉置さんと久しぶりに会ったんですよ。その少し前に玉置さんは膵炎も患っていたから、疲れているんじゃないのかなと心配したんですけど、完全に杞憂に終わりました。ものすごく元気なんですよ(笑)。

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「おお、末崎君、久しぶり!」って感じで、間髪入れずに「安全地帯やりたいんだよね」と切り出されて。元気だったうえに、色気もプンプンで。初めて会ったときも色気が凄かった話をしましたけど、その頃を超えたレベルの色気なんですよ(笑)。なんかオーラに圧倒されちゃいましてね。

ーー再活動にあたっての合宿だったと。

末崎 その頃、私はユニバーサルミュージックに所属していまして。メンバーとミーティングを重ね、会社とも協議を重ねた結果、復活に向けて動くことになったんです。安全地帯は香港でものすごい人気があるので、アジア戦略も見据えつつ、新譜も作ることにしようと決めて。2009年の9月頃から12月あたりまでの4ヶ月間、宿舎のある伊豆のスタジオに寝泊まりしながら、音を合わせたり、作曲をしたんです。

ーー末崎さんも合宿に加わったのですか。

末崎 僕も週の半分は、伊豆のスタジオに寝泊まりして、そこから会社に通ってました。 僕は部長職で、稲垣潤一さんやビリー・バンバン、加藤登紀子さんの担当していたんです。  

 でも、安全地帯というバンドから発せられるエネルギーが途方もないので、こっちも生半可な気持ちじゃ向き合えないんですよね。もう死ぬ気の覚悟というか。だから、合宿、ア ルバム制作、ツアーなどを含めて、3年間は一心同体でいました。