『ワインレッドの心』『悲しみにさよなら』『碧い瞳のエリス』などのヒット曲で知られるロック・バンド、安全地帯。

 プロデューサーとして安全地帯を支えた末崎正展氏(61)に、バンドとの出会い、メンバーの印象、バンド内のパワーバランスなどについて、話を聞いた。(全2回の1本目/続きを読む)

末崎正展氏

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安全地帯との出会い

ーー末崎さんがキティレコードに入ったのは、いつ頃ですか。

末崎正展(以下、末崎) 安全地帯のシングル『じれったい』がヒットした直後。だから、1987年ですね。

 僕は大学時代に関西のポリドールでアルバイトをしていて、そこでキティレコードの人に誘われて、1987年の夏に学生のままキティに入ったんですよ。で、しばらくキティの関西支社にいて、東京へ配属されたと。

ーー初めて安全地帯と出会ったのは?

末崎 その年の大晦日に「ロックンロール・バンドスタンド」というフェス的なイベントがあったんです。その会場のひとつが神戸のワールド記念ホールで、安全地帯も出るということで楽屋に挨拶に行ったのが最初の出会いですね。

 楽屋のドアを開けたら、ギターの矢萩(渉)さんと武沢(侑昂)さんが将棋を指していて(笑)。挨拶したら「ああ、こちらこそどうぞよろしくお願いします」と返してくれたんです。

 僕はまだ学生だったからガチガチに緊張していたし、プロのアーティストってツンツンしているものだと思い込んでいたんですよ。でも、すごく素朴な人たちだなって。で、玉置(浩二)さんは、本番寸前なのに楽屋にいなかったという(笑)。  

ーー本番寸前でも、いなかったんですか?  

末崎 当時はイベントなんかはリハ終えたら、他のどこかにいて、本番になるとどこから ともなく現れるんですよ。だからといって、メンバーがイライラすることもなく。そのあたりは、故郷の旭川からずっと一緒にやってきてるから承知してるし、それくらいで音が乱れるなんてこともないんです。なんたって、小中学校の頃からの付き合いですからね。幼なじみ、友達というところから一緒に音楽をやってきてるから、もう全然ですよ。

 もうひとつ玉置さんに関して言うと、当時から大スターだったのもあったけど、ものすご く色気がありました。もともとスターって感じで、「この人、モテないわけがないな」っていうオーラが出まくってましたね。挨拶したら「おう、おう」と言ってくれましたけど。