夜になると、真夏とはいえ山中の現場は冷え込んできた。そこかしこでまだ炎がチロチロ燃えていた。
「寒くなってきたので、自衛隊員から遺体を包むための毛布を借りました。平らな場所がほとんどなく、あってもそういう場所は翌日運ぶために並べられた遺体で埋まっている。仕方ないので、遺体の間に潜り込むようにして寝ました。それを見た自衛隊員から『遺体と間違われて運ばれるぞ』と冗談を言われました。ただ体は疲れきっているのになかなか寝つけず、うとうとしていたら朝方、寝ぼけて家にいると錯覚して周りを見渡してうろたえたのを覚えています」
夜が明けると、自衛隊員や警察官らがやってきて、遺体の回収作業が再開された。
「朝も少し現場を見て回って、締め切りもあるので昼頃に下山を決めました。南相木村の役場に行くと昨日の運転手さんが待っていてくれて、本当に助かりました。そのままハイヤーで東京の編集部に直行してもらい、撮影したフィルムを届けました」
橋本氏の撮影した写真は、「週刊文春」のモノクログラビアに掲載された。最初のページには、JALの文字が入った折れた翼の写真が使われていた。
「なぜ520名もの人が死ななければいけなかったのか」
今の時代からは想像しにくいが、当時は写真誌を中心に“死体ブーム”という奇妙なブームが起きていて、露悪的にグロテスクな死体写真を掲載することが流行っていた。一部のメディアではあからさまに遺体の一部が写っている写真が使われて問題視されたが、そんななかにあって、橋本氏の写真は極めて抑制的だったと言える。
「事故から38年後の昨年の8月12日に、遺族の方たちに同行して、慰霊登山に参加しました。現場を訪れるのは、30年以上ぶりだったと思います。娘がここで亡くなったという80歳を過ぎた遺族の方も、山道を登っていました。燃えて炭化していた木々から芽が出ていて、40年近くの年月を感じさせましたが、私が昨日のことのように鮮明に覚えている以上に、遺族の方たちにとっては忘れられない惨事だったと思います。なぜ520名もの人が死ななければいけなかったのか、改めて考えさせられました」
日本航空では毎年、4月に入社した新入社員をこの慰霊登山に参加させているという。事故を忘れたときに、また事故は起きる。記憶を紡ぎ、つないでいくことが大事だ。