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大学の推薦か、プロ行きか

 次の岐路は高3の秋。藤枝東高校サッカー部が静岡県予選で優勝し、インターハイに出場できたおかげで、僕は都内の私立大学の推薦を取ることができた。それを両親とともに大喜びしていたら、浦和レッズからオファーが来たのである。

 僕は県内においてもほぼ無名の存在で、プロなんて夢にも思わなかった。当然、両親は「大学に進学しなさい」と、プロ行きには猛反対した。

 だが、スカウトの人から自分の評価を聞いているうちにだんだんプロで自分の力を試したいという闘志がわきあがってきた。明らかに根拠のない自信なのだけれど、何だかやれるような気になっていた。僕は両親に「大学の推薦を断って、レッズに行きたい」と告げた。

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 うまくいけば、レッズという名門クラブのレギュラーになれる。

 しかし失敗すれば、大卒という肩書きを失ったうえに、就職さえままならなくなる。

 そんなリスクある人生設計を両親が許すわけがない。僕を説得するために中学時代にサッカー部の監督だった滝本義三郎先生にお願いして、四者面談の場が設けられた。恩師の滝本先生が止めれば、さすがに息子はプロ行きを諦めると思ったのだろう。

©文藝春秋

 滝本先生は、面談でこう聞いてきた。

「県内で一番と言われている選手が清水エスパルスに入団するのは知っているか? オマエはあの選手以上のプレーをできるのか?」

 僕は決心を試されているのだと思った。だから、あえて強い口調で言い切った。

「できます」

 あとで分かったのだが、滝本先生は事前にいろいろな人に、僕がプロで通用するかを聞いていてくれたらしい。先生が得た答えはイエスだった。滝本先生は「決意がそんなに固いなら、私も応援する」と言ってくれた。

 最終的に僕は両親を説得することができた。今、長谷部家では、「あのとき大学に進んでいたら、今頃、どうなっていただろう」とよく話している。

©文藝春秋

選手として行き詰まり始めたときに

 プロになってからは、大げさに言えば毎日が岐路だった。

 競争に勝って、試合に出られるか。競争から逃げて、他の仕事を探すか。

 そういう厳しい世界に何とか食らいついて生き残り、6年が経つと試合に出るのが当たり前になった。昔のように新鮮な気持ちで試合に臨むことができない。

 選手として行き詰まり始めていることを感じていた。

 そろそろ新たな挑戦が必要なときかもしれない――。

 僕は海外移籍を本気で考え始めた。