気がつくと日もすっかり暮れて、私は寺の座敷の蒲団の上だった。頭がグラグラして、体中が重い。
「しまった……!」
そう思っても、もう遅い。こうなるくらいなら、多少不興を買っても、断然酒は断るべきだった……と、先に立たない後悔をしていると、がらっと襖が開いた。
袋に入っていた金額は…
「お前、檀家が3人で運んで来たぞ」
師匠が笑いを噛み殺している。
「連中、えらく恐縮していてな。本当にすみません、でも、本当にそんなに飲ませてないんですって、『本当に』を繰り返して、何度も頭を下げていたぜ」
「すみません……」
「まあ、これで檀家にお前の酒のレベルは知れ渡るから、今後は大丈夫だな、あははは」
半分はアンタのせいだと内心思ったが、失態は失態である。恐縮していると、
「ほら、忘れてきたろ、コレ」
師匠は「御布施」と上書きされている熨斗袋を差し出した。
「え? 僕に?」
「檀家が一緒に持って来た。お前がお経を読んだんだろ、受け取れ。今日はこのまま休め」
師匠が襖を閉めた後、私はしばらく熨斗袋を眺めていた。
「御布施かあ……」
ふと正気になって、あらためて「御布施」の字を見て、私はそれを開けてみた。
「5万円!」
40年近く前のことであるが、私は、この時の衝撃を今も鮮明に覚えている。
修行歴2年の、文字通りの若僧である。それが正味30分の読経である。しかも途中で気絶したとは言え、いわゆる「アゴ、アシ」付きの「仕事」である。それで5万円!
その2年前まで月給13、4万円で、私は働いていたのだ。それが30分で5万円。私は恐怖に近い感情に襲われた。
「これは、危ない」
自分のしていることを、ただの「金儲け」、ただの「生業」と考えたら、確実に道を誤る。およそ世の中、危ない仕事以外で、30分で5万円、払うだろうか。
私は今でも、御布施をいただく時、心のどこかに、薄っすらと(もう、薄っすらになってしまったが)怖れとためらいがある。そして今思えば、師匠は私がそう思うようになるだろうと思い、いや、そう思わせようとして、わざと大きな法事に行かせたのではないか。
*
師匠はある日、私に言った。
「お前、坊さんなんだから、何でもいいから、一つくらいはタダでやれ」
当時、師匠は近所の子供たちにタダで書道を教えていた。私はその後、師匠の言うことだからと思い、希望する人との面談は、一切タダですることにした。
これまた、今にして思う。師匠は、坊さんとお金の関わりに無神経、無自覚になるなと、私に教えたかったのではないかと。
世上、宗教と金が一緒の話題になって、よいことはまず無い。そして、釈尊の昔、修行僧は金に触れることを禁じられていた。
それを思い、かれを思う時、私は自分の経験と師匠の教えをこれからも大切にしようと肝に銘じる、まさに「今日この頃」である。
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