1952年、新潟県の信濃川沿いの荒屋で若い男が夜を明かしていた。外は暴風雨。突然、木戸が開き、豪雨が吹き込んできた。閉めるため手を伸ばしたその時、轟音とともに荒屋が崩壊。男は川に投げ出され、次に目覚めたのは岸辺だった。途方に暮れていると、一基の鳥居が目についた。境内には本堂があった。外観は廃墟同然だったが、内装は手入れがなされて煌びやかなままだった。「そこに誰かいるのかい?」奥から声がした――。
「これは、昨年に亡くなってしまった大倉さんという方の体験談です。東京に住む大倉さんのお孫さんと僕の友人が知り合いで、その紹介で、91歳だったご本人から直接お話を伺うことができました」
怪談師の正木信太郎さんがこのたび上梓した『川の怪談』には、北は北海道のウッペツ川から南は熊本県の球磨川まで、全国に実際にある30の河川の怪異談がまとめられている。
「川をテーマに、と版元の竹書房さんからお声がけいただいたんです。引き受けたものの、これは困ったぞと。僕が扱っている現代怪談は、誰かが実際に体験した話を聞いて、それを書き起こす手法がメインです。仲間内では辻取材と呼んでいるのですが、街行く人や待合で一緒になった人、旅先で知り合った人に『怖かったり、不思議な経験ってありますか』と聞き込みをするんですね。9割の人が『ない』と答えるし、『ある』と答えた人のなかでも、川に関係がなかったり、怪談ではない水難事故の体験だったりするわけです」
本書の執筆にあたり、約半年で2000人以上に声をかけたそうだ。
「いかに珍しい体験をされた方に出会えるかが勝負。完全に運まかせです。無事に一冊にまとめることができて、今年の運は使い切ったかなと思います(笑)」
100年以上昔の話もある。1922年に東京は隅田川近くの長屋で、義両親に養女のお初が殺されてバラバラにされる事件があった。
「家を調べにきた刑事にお初の亡霊が姿を現した、といった怪談です。お話しいただいたのは千葉県に住む牧浦さんという100歳超のおじいさんで、牧浦さんのボウリング友達だという方が紹介してくださいました。ご高齢ということで何回かに分けてお話を伺ったのですが、改めて当時の新聞に当たってみると、事実“お初殺し”なる事件があって、報道もされていた。さらに詳しく調べていくと、この怪談の成立過程や、川が関係する新たな面もわかってきて、驚きましたね」
そんな本書だが、怪談と聞いてイメージしやすい幽霊話は思いのほか少ない。高知県の仁淀川水系の長者川では、水切り中に投げた石がある地点で急に跳ね返って消えてしまい、その晩体にも異変が生じる。富山県の片貝川では、干上がった川底に喉仏の骨が落ちていて、拾い上げると……。
「不思議な体験の話が多いかもしれませんね。僕自身そういう話が大好きで、聞き込みをしていても、とんでもない体験をされた方のお話を聞いた時が一番テンションが上がるんです」
普段はシステムエンジニアとして働いている正木さん。10年ほど前から怪談師として活動を始め、著書も本作で10作目を数える。目指している怪談がある。
「この本でもそうですが、30話のうち1つでも『これって自分にも起こりえるかも』と思っていただけるのが理想です。本の中だけの話じゃなくて、何かの拍子に本当に体験してしまうかもしれない。そう思ってゾクッとしていただけると嬉しいですね」
まさきしんたろう/1974年生まれ。怪談師、怪談作家。小学5年生の林間学校で不思議な体験をし、怪談に興味を持ち始めた。全国を渡り歩き、不気味で不思議な奇談を蒐集している。代表作に単著『神職怪談』、映像『怪奇蒐集者 職業別怪談帖 正木信太郎』。