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 武蔵ヶ辻は江戸時代から商人町として賑わっていたようで、その時代の性質をいまに引き継いだ形といっていい。武蔵ヶ辻から南に進み、加賀藩の祖である前田利家とその妻・まつを祀った尾山神社の前を通ってゆくと、香林坊の交差点が見えてくる。

 百貨店の大和や東急スクエアなどが向かいあい、裏手に入れば細い道に飲食店がひしめき合うような典型的な繁華街。香林坊から南側の片町にかけてのエリアは、金沢どころか北陸でも最大の繁華街なのだ。ちなみに、香林坊の交差点を東に折れると21世紀美術館や兼六園がある。

50年前の雑誌の特集を見ても「中心街をみて金沢にガッカリしてはいけない」の文字が。そんなわけで…

 ただし、こうした繁華街や中心市街地を歩くばかりでは、金沢の金沢らしいところを感じることは難しい。百貨店と東急スクエアというラインナップに歓楽街エリアはどこにでもあるような飲食街。チェーン店の類いも多く、平たく言えば日本中どこにいっても見られるような繁華街に過ぎない。

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 これは別にいまにはじまったわけではなく、たとえば1973年に発売された雑誌『anan』の金沢特集。そこでは

「古いものがそのまま生き続けてる城下町」とはじめつつ、「中心街を見渡しただけではガッカリしてしまいます。新しいビルと鮮かなショーウインドー、ケンタッキーフライドチキンのおじさんもいます。古都のふん囲気ではないのです」

 と書かれている。歴史情緒を求めるならば、中心市街地とは少し違うところを歩くほうがいいようだ。

 そんなわけで目線を切り替えれば、すぐに金沢の金沢らしいところに行き着くことができる。たとえば、ひがし茶屋街。たとえば、香林坊のすぐ裏側の長町武家屋敷跡。そういうところもまた、たくさんの観光客が歩いている。

 

 さらに、駅の近くであってもメインストリートから少し外れた細い路地に入れば、ほどよい雰囲気が漂っていたりして、この町の奥深さを感じさせる。兼六園や21世紀美術館ももちろん素晴らしいが、それだけではすまないレベルの奥行きの深さが、金沢を日本屈指の観光都市たらしめているのだろう。

「金沢」のここまでの“観光都市”ではなかった時代

 金沢が、これほどまでの観光都市になった理由はどこにあるのだろうか。

 ひとつに、戦時中に空襲を受けていないことが挙げられる。県庁所在地レベルの都市で空襲被害を受けていない都市は数少なく、もちろん同じ北陸の富山や福井も大空襲に遭っている。

 ところが、奇跡的というべきか、金沢はその被害を免れた。京都や奈良と同様に文化的な価値が重視されて空襲の対象から外されたという説もあるようだ。ただ、明確に古都として存在していた京都や奈良と、城下町として歴史を刻んできた金沢は本質的に異なっている。伝統工芸が息づいているというならば、それは別に金沢だけではないはずだ。