それにそもそも、戦前の金沢はいまのような観光都市という顔は持っていなかった。庶民が気軽に観光旅行に出かけられるようなご時世ではなかったということもあるのだろうが、何よりやっかいだったのは交通の便だ。
1898年、金沢駅が開業した当時、東京から金沢に向かうには米原駅で夜行列車から乗り継ぐしかなかった。1908年には直通列車も登場するが、新橋駅を朝出発すると金沢に到着するのは次の日の朝。一昼夜の旅が必要だった。1913年には北陸本線が全通して上野からの直通列車が登場して所要時間は大幅に短縮されるが、それでも夜に上野を出たら翌朝に金沢という、夜行列車の旅であった。
どんどん“近く”なる金沢を時代も後押し。そして人気が爆発した出来事が…
戦後になると、蒸気機関車からディーゼル特急、電車特急などに切り替わり、少しずつ所要時間は短くなってゆく。1960年代には上野駅を朝出発して夕方には金沢に着く列車も運転されている。70年代にはさらに短縮され、朝に上野を出れば昼過ぎには金沢へ。東海道新幹線が開業したことで、米原経由での金沢行きが便利になったことは大きな効果があった。
そして、時代も後押しする。国鉄が1970年からはじめた個人旅行のキャンペーン「ディズカバー・ジャパン」や、そのもとで『anan』や『non・no』といった女性誌が盛んに展開した旅行特集だ。この流れに乗って、若い女性たち、すなわちアンノン族が金沢にも訪れるようになった。
時代はちょうど高度経済成長期。新しいもの、最先端のものというよりは、“日本的なもの”を訪ねる観光がブームになった。そうした時代の流れと金沢の昔ながらの雰囲気が実にマッチしたのである。金沢が本格的な観光都市になっていったのは、この頃からといっていい。
そうしていつしか観光地として定着した金沢は、21世紀に入ってさらに爆発的に人気を得る。2015年、北陸新幹線が金沢駅まで延伸したのだ。