病院に着くや、即座に手術が行われ、助かった(全治1カ月)のは何万分の一の確率という奇跡的なものだった。その弾丸が首筋を抜けて何ひとつ障害なしで行ける道筋はたった1カ所しかなく、まさにそこを貫通したというのだから、神がかっていた。
逃走して身元不明だった狙撃犯が、大日本正義団の鳴海清と判明するのは後日のことであったが、山口組の怒りは凄まじかった。
「犯人は警察より先にこっちであげるんや。このケジメは山口組でつけるんや!」
山口組若頭である山健組組長山本健一の檄が、主だった幹部組長に飛んだ。
山口組の必死の探索をよそに、当の鳴海は大阪市大正区の二代目正義団会長吉田芳幸の愛人宅から東京の兄貴分同様の某組織組員宅、再び大阪の吉田会長愛人宅、さらに兵庫・三木市の知人宅──と、逃亡先を転々としていた。
移動の際には、赤茶色のロングヘアのカツラをつけ、トンボ眼鏡、白のカーディガン・パンタロンというスタイルで、女装することもあったという。
そして8月12日、大阪の夕刊紙専門の新聞社2社に、鳴海清の名で、2枚の便箋入りの封書が届いた。消印は大阪・西成郵便局だった。
《田岡まだお前は己の非に気づかないのか。》
《田岡まだお前は己の非に気づかないのか。……。もう少し頭のすずしい男だと思っていた。でもみそこなった様だ。日本一とか大親分とかいわれ、己れ自身、その覚が多少なりともあれば、王者の貫禄というものを知るべきだ。長期にわたり世間様に迷惑をかけ、尊い人の命をぎせいにし、その上にほこり高き己れ自身がさらし真の日本一か。(以下略)》
との文面で、大阪府警は筆跡鑑定の結果、これを鳴海の直筆と断定、鳴海は西成地区に潜伏の可能性ありとして、機動隊まで出動させて一斉捜索、一帯のローラー作戦を展開した。
この三代目を揶揄した挑発的な手紙が、どれだけ山口組の怒りを増幅させたかは想像に難くなく、明らかに火に油を注ぐ形になった。
山口組は大量の組員を西成に送り込んで、鳴海探しに躍起になる一方で、ついに松田組に対するなりふり構わぬ報復攻撃を開始したのだった。
その火蓋が切って落とされたのは、鳴海の挑戦状が新聞に出た日から4日後、8月17日のこと。大阪市住吉区の新興住宅地にある公衆浴場「大黒温泉」前において、松田組の重鎮・村田岩三組長率いる村田組の若頭補佐・朝見義男が射殺されたのである。山口組山健組内盛力会組員による犯行だった。