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その後も執拗な山口組の報復攻撃が繰り返された

 続いて9月2日午後10時、和歌山市の松田組系西口組組長西口善夫宅前に、山健組内健竜会組員ら4人が白いセドリックで乗りつけ、拳銃を乱射した。弾丸は西口宅門付近で警戒中の同組組員2人に、それぞれ2発と3発が命中し、2人は死亡した。

 その後も執拗な山口組の報復攻撃が繰り返された。大阪・阿倍野、再び和歌山市、尼崎、大阪・西成──と、山口組による銃撃事件がたて続けに発生、山口組はわずか3カ月ほどの間に、松田組系の幹部、組員ら6人を射殺、数人に重軽傷を負わせたのだった。

写真はイメージです ©AFLO

 その主だった事件の半数は、若頭の山本健一が率いる山健組配下によるもので、この“大阪戦争”で山健組が背負った懲役の総計は、実に200年を超えた。

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 山口組の報復攻撃が続くなか、9月17日、兵庫県六甲山中の谷底で鳴海清が変わり果てた姿で発見された。鳴海の遺体は顔や両手、両足をガムテープでグルグル巻きにされ、激しい暴行を受けた跡があった。

 明らかにリンチ殺人であったが、山口組の犯行ではなかった。では、鳴海は山口組以外の何者によって始末されたのか。ずっとわからずじまいで、謎を残したまま時効が成立、現在に至っている。

昭和53年、山口組の一方的な終結宣言により抗争は終わりを迎えた

 この一連の過激抗争にピリオドが打たれたのは、昭和53年11月1日、山口組本部2階大広間に多数の報道陣を招いて行われた山口組の一方的な抗争終結宣言による。

 同日午後3時、宣言発表の場に臨んだのは、若頭の山本健一、若頭補佐兼本部長の小田秀臣、若頭補佐の山本広の3人で、80人の報道陣を前に、山本健一が声明文を読みあげた。

「昭和50年7月、大阪豊中市に於ての抗争事件惹起により、一連の不祥事が偶発いたし、市民各位様に多大のご心痛、ご迷惑を及ぼしましたること、当組の本意に非ず、真に不徳のいたすところと申しながら、尚現状をこのまま放置することによって、将来、益々の抗争による益なき事態が偶発する可能性を憂慮いたすと同時に、ひいては、社会の治安に係る重大な過失を犯す結果を生ぜしめ、尚これ以上のご迷惑を世間様に及ぼし、且、当組綱領の教示をみずから冒涜するものであると考慮いたし、ここに当組独自の判断により一連の抗争事件を終止、徹底いたすべく、本声明文の公表を以て、抗争終結の宣言をいたすものであります」

 かくて昭和50年から53年まで4年越し、3次にわたって繰り広げられた山口組VS松田組の“大阪戦争”は、ようやく終結を見たのである