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相方は「もう気力がない」

 結局、何の効果もなく、半年で元の名前に戻したものの、『プレゼンタイガー』のスタッフが、せっかく改名したのに仕事が増えないのはかわいそうだと、テレビ朝日で同時期にやっていた『内村プロデュース』(『内P』)に出してくれ、その後もちょくちょく呼ばれるようになる。この間、猿岩石は2004年に、翌月のライブに出るかどうかという話になったとき、相方の森脇が「もう気力がない」と言ったのを機に解散した。

『お前なんかもう死んでいる プロ一発屋に学ぶ「生き残りの法則50」』(双葉文庫)

 有吉はピン芸人として『内P』に出続けることになる。ここへいたって、自分にはもうリアクション芸しか残っていないと心を決めると、プライドをかなぐり捨て、裸になることもいとわなかった。芸風が開けたのは意識の変化もあったらしい。どうせもう女性ファンはつかないと思うと、「モテたい」とか「単独ライブやって才能を認めてもらいたい」といった“カッコつけ”がきれいさっぱりなくなり、「同世代の男が面白いと思ってくれりゃいい」というふうに意識が変わったという(有吉弘行『お前なんかもう死んでいる プロ一発屋に学ぶ「生き残りの法則50」』双葉文庫、2012年)。

転機となった一言

『内P』で存在感を示すようになると、しだいにほかの番組からも声がかかるようになる。給料もまた少しずつ増えていった。そこへ再ブレイクのきっかけが訪れる。2007年、ゲスト出演した『アメトーーク!』(テレビ朝日系)で、品川庄司の品川祐に「おしゃべりクソ野郎」というあだ名をつけたところ、これが大ウケし、毒舌芸人として一気に仕事が増えたのだ。

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 しかし、有吉はここでも舞い上がることはなかった。猿岩石で人気が急降下してどん底を味わった経験から、再ブレイク後も《こわくてあんまりぜいたくできないです。またお金がなくなると思うので》と口にしている(『週刊朝日』2009年6月26日号)。猿岩石のブレイクが芸人としてのものではないと早い段階で悟ったように、有吉には常に冷めた目で自分を見ているところがあった。例の「おしゃべりクソ野郎」もそもそもは、『アメトーーク!』に「一発屋にならないための方法」を芸人たちに指南するため呼ばれ、「自分が世間で持たれているイメージを知ることが大事」と解説するなかで飛び出したものだ。

「おしゃべりクソ野郎」があまりにウケたため、その後しばらくはどこへ行ってもあだ名をつけてほしいと言われては応えてきた。しかし、2年ほどして、《これじゃあこの先続いてかないな、また大変なことになるなと思ったので、あんまあだ名とかやらないような空気にしていって》、ようやく、やらなくて済むようになったという(『Quick Japan』Vol.94、2011年2月)。