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猿岩石ブームのジレンマ

 だが、いざ持ちネタを披露し出すと、旅をネタにしたコントはウケたものの、それ以外はスベりまくる。有吉は、途中で観客が席から立ち上がったので、ウェーブでも起こったのかと思ったら、みんなそのまま出口へ向かって行くのを目の当たりにした(『猿岩石 芸能界サバイバルツアー』太田出版、1997年)。いまにして思えば、その様子は猿岩石の行く末を暗示していたのかもしれない。

ユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅から帰国後に出版した『猿岩石日記 Part1 極限のアジア編』(日本テレビ放送網)はベストセラーに

 帰国と前後して出版された旅行記『猿岩石日記』Part1~2(日本テレビ放送網、1996年)はベストセラーとなり、1996年末には、藤井フミヤ・尚之兄弟が作詞・作曲した『白い雲のように』でCDデビューし、これも大ヒットして100万枚以上を売り上げる。もちろんテレビからは引っ張りだこで、ファンイベントや歌手としてライブを開けば大勢の人が詰めかけた。

 しかし、このブレイクはけっして芸人としての人気によるものではないと、有吉はよくわかっていた。帰国直後のインタビューではすでに、《絶対、面白いから人気が出たんじゃないとは思ってます(断言する)。やっぱり感動されちゃったんじゃないかと。だからあんまり喜べない》と語っていた(『放送文化』1997年2月号)。

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 太田プロには所属芸人の出演する定期ライブがあり、そこで場数を踏んで実力をつけていこうとしたものの、女性客から歓声が上がったりして、どうもほかの出演者から浮いてしまう。そのため邪魔にならないよう、ライブの最後に歌を披露して終わりみたいなことになり、ジレンマに陥っていった。

1996年、藤井フミヤ・尚之兄弟が作詞・作曲した『白い雲のように』でCDデビューし、ミリオンヒットに

月収2000万円→0円に転落

 そうこうしているあいだにブームは過ぎ去る。仕事は減るばかりで、一時は最高で月2000万円もらっていた給料もどんどん下がり、さらに固定給から歩合制に変わったため収入はほぼゼロになった。

 それでも有吉はこうなったときを見越して、ブレイク後も高い家賃のマンションに引っ越したりせず、貯金に努めてきたおかげで、収入が途絶えたあともそれを切り崩しながらどうにか7~8年は暮らしていけた。だが、その貯金も7000万円あったのが100万円を切る。彼もさすがに危機感を抱くも、世間から落ち目になったと蔑まれるのがいやでバイトもできなかった。結局、家で息を殺しながらすごすことになる。

 そんな有吉が、そのころ自分は芸人だと確認できた唯一の場所が、事務所の先輩であるダチョウ倶楽部の上島竜兵を中心とする飲み会「竜兵会」だった。上島からは、うまいこと言ってはよく小遣いをもらっていたらしい。また、酔っ払った上島の底抜けボケに、どこまでツッコんでいいかというさじ加減も学んだという。毒舌キャラで再ブレイクしたあとで有吉いわく、上島は一番悪口を言ってもOKな人という基準であり、《他の人にはそこから二、三割引いた加減で言ってます》(『Quick Japan』Vol.79、2008年8月)。

 猿岩石は2001年に一時、二人なのに「手裏剣トリオ」と改名したことがある。ちょうどその頃、さまぁ~ず、くりぃむしちゅーと改名したコンビがあいついで売れたため、それにあやかろうと『プレゼンタイガー』というフジテレビの番組の企画で決まったことだった。