私はこの星野監督の人間像、上司像は今でも十分通用すると思います。
しかし、それは「本当に厳しさと面倒見の良さが両立するなら」です。星野監督の社会的影響力や人脈、財力があれば、確かに「部下の一生の面倒を見る」という言葉も現実的かもしれません。
また、四半世紀前なら、組織で働く会社員の上司でも、「ちゃんと会社の方針に従っていさえすれば、悪いようには絶対にしない」「責任は自分が取る」と確信を持って言えたかもしれません。
しかし皆さんもご存じの通り、当時の「約束」はのちの日本の「失われた数十年」の中で反故(ほご)となってしまいました。そんな今、「お前の人生の面倒は見るから」と言える人はどれだけいるでしょうか?
「自由と自己責任」の現代
この数十年で「指示に従えば、責任は取る、面倒も見る」の代わりに流布した言葉が「自由と自己責任」です。
読んで字のごとく「自由にしてよいよ、ただし責任も自分で取ってね」ということですが、噛(か)み砕くと「もうあなたの面倒は見られない、こちらに責任は取れないから、その代わりに自由にしていいですよ」というのが本音でしょう。
今では、雇用形態から人事制度、異動の仕組みまで、あらゆるところで「自由と自己責任」が広がり、日本の企業社会の常識となっています。
そんな時代に上司が「失敗しても私が責任を取る」と大見得を切っても、どこまで信用されるでしょうか?
もし部下に対して格好をつけたい、威厳を示したいがためだけにこのセリフを吐くならば、この本に出てくるNGワードの中でも最悪の部類に入ります。「できないことをできると言っている」つまり「ウソをついている」からです。
若手は、もし上司に「失敗しても責任を取る」と言われた場合、まず「責任って何?」と思うことでしょう。その仕事にトライし失敗しても、自分の評価に影響しない、それを保証する、ということでしょうか?
それならまだ好感を持たれ、納得もされると思いますが、もし「上司が非を認める」とか「社長や経営陣に謝罪する」「相手企業に頭を下げに行く」程度の意味でしかないのならば、「そんなことしてもらっても別に意味はない」と思うでしょう。