ウクライナ戦争、イスラエルによるガザの攻撃。止まない戦争に心を痛め、こんな状況下で小説や本をどう読んだらいいのだろうと悩みを抱える人も少なくないかもしれません。戦争のさなかに文学を学ぶことにどんな意味があるのか? 社会や愛をどう語れるというのか? 読者を作品世界に誘う不思議な「体験型」授業を通じて、この時代を考えるよすがを教えてくれる青春小説にして異色のロシア文学入門、『ロシア文学の教室』(文春新書)が刊行されました。著者のロシア文学研究者・翻訳者にしてエッセイストの奈倉有里さんに本書誕生までのお話を伺いました。
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青春小説にして異色のロシア文学入門の一冊が生まれるまで
――枚下先生という巨匠(マイスター)先生の不思議な「体験型」授業に導かれ、大学生の湯浦葵(ゆうら・あおい)や新名翠(にいな・みどり)といった主人公たちは19世紀ロシア文学の世界へとワープします。気づけばその作品の登場人物になって小説世界を体験し、元の教室に戻ってくるわけですね。読者は12回の講義を彼らとともに受けながら本書を読み進めていくわけですが、当時の時代状況が生き生きと浮かんできますし、その時代に生きることの喜びや悲しみや怒り、いろんな感情を追体験できるような魅力があります。なぜこのような小説の形でのロシア文学入門の一冊を書かれたのでしょうか。
奈倉 最初に企画をいただいたのが2021年の末のことでした。その後、ウクライナでの戦争が本格化し、社会状況が大きく変わっていくなかで、いま書けることは何だろうと考えたんです。大学で教えながら、学生たちはもちろん先生たちですらロシア文学をどう読んだらいいのかという悩みを抱えているのを目の当たりにして、ひょっとしたらこういう状況のなかで学ぶことを改めて考えてみるのも大事なことではないかと思ったんですね。
読んだ人が「どんなときでも勉強して悪いことはないんだ、思い切り勉強していいんだ」という気持ちになれるような本にしたくて、それを実現するためにこの小説形式が浮かび上がってきました。文学作品の紹介にはいろんな形がありますけれども、あらすじ的に紹介されると、小説のいちばん面白いところはなかなか見えてこないように思います。私自身、小説を読むことが好きで、作品の中に没入している瞬間というのはすごく幸せなんですよね。その感覚をそのまま伝えられたらと積極的に試みたのが、「中に入っていく」ということです。
主人公は画家になってみたり孤児になってみたり、あるいは女の子になってみたり、この世のものではない存在になってみたり、いろんな存在になって作品の中に入っていく。私自身、この本の登場人物たちにそんな体験をさせてみるのは実際にとても楽しい作業だったのですが、実際に私たちが小説を読むときにも、作品の中の誰かになってみることで、その視点から見えてくるものというのがあると思うんです。
――文芸誌の「文學界」の連載時から大きく変わったのが、本書をめくってみてすぐに気づく横組みの註があることですね。註といえば巻末や章末にまとめて縦書きで付されるのが通常なので大変新鮮なのですが、筒井康隆さんの『文学部唯野教授』(岩波現代文庫)を参照されたとか。
奈倉 筒井さんの作品のようにこの本も書籍化するときに、いろんな楽しみ方ができる本になればと思ったんです。湯浦たちのストーリーを追うだけでも読めるし、もちろん原作を読んで授業に挑んでもいいし、あるいは註だけを拾い読みしてもいい。註はロシア文学に関係するものもあれば、その作家が影響を受けた他のジャンル、あるいは枚下先生が講義に持ってきた関連テーマにまつわるものなどさまざまです。註がなくても物語は成立するんだけれども、それ単体でも意味があって、読みたい本が増えるきっかけになってくれたら嬉しいなと。