1ページ目から読む
2/3ページ目

 Iは8月16日朝に逮捕。日高夫婦は3日後の19日早朝、自宅で逮捕された。

首謀者である「殺人カップルの来歴」

 首謀者の安政は1943年、北海道様似郡様似町で7人兄弟の6男として生まれた。家族が夕張市に転居した6歳のときに父を亡くし、以後一家は母子家庭に。兄たちの影響もあり、小学校のころから店舗荒らし・賽銭箱荒らしなどの非行を繰り返し、小学6年生から15歳まで遠軽町の教護院「北海道家庭学校」で過ごす。その後、トラック運転手や炭鉱労働者、調理師見習いなどを経て、17歳のころから暴力団員として活動。1969年には結婚して、1女をもうけている。

 もう一人の首謀者、信子は1946年、夕張市で炭坑員の家の7人兄妹の4女として生まれた。小学校は3歳年上の安政と同じ学校で、道立夕張高校時代は不良少女として有名だったという。卒業後、上京して山野美容専門学校に入ったものの、1年間で夕張に戻り、美容師見習いや事務員を経て、交際していた暴力団員と結婚して1女を授かった。しかし、まもなく夫をがんで亡くし、夕張きってのキャバレー「ダイアナ」でホステスに。1970年、店に客として来ていた安政と知り合う。信子に一目惚れした安政は、妻子と離婚したうえで彼女に求婚。信子の両親は相手が暴力団員ということで猛反対したが、安政は組に20万円を払って足を洗いカタギとなり、1972年に再婚した(結婚後に暴力団員に戻っている)。

ADVERTISEMENT

 2人は知り合ってまもない1970年ごろから、三菱大夕張炭鉱の下請会社「日高班」を設立、炭鉱作業員を斡旋する手配師業を始める。その後、1976年に社名を「有限会社 日高商事」に変更する一方、安政は知り合いの女性と上京、信子も従業員と駆け落ちし、1977年に会社は倒産。その後、それぞれの相手と別れた2人はよりを戻し「有限会社 鹿島工業」を設立。

 安政はこのころ、暴力団「誠友会」の総長と知り合い、その下部組織となる「初代誠友会日高組」を立ち上げ、金融業や水商売も手がけるようになる。しかし、1978年、暴力事件や覚醒剤所持、銃刀法違反などで懲役2年6ヶ月の有罪判決を受け服役。信子は「鹿島工業」をたたみ、新たに「日高興業」を興し、女手ひとつで手配師業を続けた。

 そんななか、1981年10月16日に「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」が起こる。1963年の三井三池三川炭鉱炭じん爆発の453人、1965年の三井山野炭鉱ガス爆発事故の237人に次ぐ93人の死者を出したこの事故で、日高興業が現場に派遣していた作業員7人が死亡したため、死亡保険金1億3千万円が会社に振り込まれ、遺族に支払われた分を除いても約6千万円が経営者である日高夫婦のもとに残った。