『運び屋として生きる モロッコ・スペイン領セウタの国家管理下の「密輸」』(石灘早紀 著)白水社

 本書の舞台となるセウタは、モロッコ北部にあるスペイン領の町だ。アフリカ大陸における欧州の「飛び地」であるこの小さな町の国境地帯は、アフリカからヨーロッパを目指す移民や難民の経由地として知られる。そして、そこで1990年代から30年間にわたって続けられてきたのが、本書に描かれる奇妙な「密輸」である。

 著者が「密輸」と括弧でくくるのには理由がある。密輸と聞いて思い浮かべるのは、違法薬物や高価な金品などだろう。だが、セウタの「密輸」で扱われてきたのは、洋服や食料といった日用品。主な「運び屋」は貧困に苦しむモロッコ人女性で、現場では民族衣装「ジュラバ」の下に新品の洋服を重ね着し、国境を通過する「重ね着密輸」の列もできていたという。

 そこで疑問となるのが、モロッコ・スペインの両国は、なぜこの「密輸」を黙認・容認してきたのかということだ。ある時期には「タラハル・ドス」という専用通路まで作られ、最盛期に「密輸」にかかわっていた人の数は40万人に上ったという。なぜ、この特異性に満ちた「密輸」は、合法でも違法でもない状態のまま続けられ、拡大したのか――?

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 在モロッコ日本国大使館派遣員でもあった著者は、その背景を綿密な質的調査によって浮かび上がらせていく。

 セウタでの「密輸」の背後にある複雑な要素を解きほぐすために、著者は行政の外にあるため政府の雇用統計に含まれない「インフォーマル経済」、「国境」、「女性」という3つの視点を提示する。それらを複眼的に分析することによって、〈ルールのある密輸行為という矛盾〉がなぜ生まれたのかというプロセスが、謎を解くように徐々に明らかにされる。

 法律や規制の埒外にいることで、ときに警察官からの暴力にさらされる運び屋たち。生きるために「密輸」に従事するその当事者にインタビューを重ねながら、彼女たちの存在をモロッコとスペインの歴史的、社会的、経済的問題、さらには政治や外交の問題と結び付けていく筆致に引きつけられた。

 外交カードとしての「移民」問題、フォーマル経済とインフォーマル経済の関係、人道的観点からの支援が「運び屋」たちをさらに周辺に追いやってしまう、という課題……。トレードオフの関係にあるいくつもの要素が絡まり合った結果、その歪みが目に見える形で表されたのが国境の光景であったことが、本書を読むとクリアに理解されるはずだ。

 国家の様々な思惑による政策の変化が、境界で暮らす最も立場の弱い人々を翻弄していく背景とはどのようなものか。1つの国境で繰り広げられる「密輸」の変遷から、普遍的なその構造を浮かび上がらせる刺激的な1冊だ。

いしなださき/1990年生まれ。一橋大学大学院社会学研究科修了。専攻は国際社会学、モロッコ・スペイン領セウタ研究。毎日新聞社記者、在モロッコ日本国大使館派遣員を経て、現在、国際開発コンサルティング会社勤務。
 

いないずみれん/1979年、東京生まれ。『ぼくもいくさに征くのだけれど』で大宅賞受賞。著書に『サーカスの子』『廃炉』など。