一つ一つの要素は何であるか分かるのに、全体としては何がなんだか分からない奇妙な絵です。作者のジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)は見慣れている物たちを、あえて意味や関係性が不明瞭な構成で描きました。このような表現はショーペンハウアーやニーチェの哲学を反映したもので、自ら「形而上絵画」と名付けたものです。日常の中の非日常や日常を越えた何かを思わせる不穏さが魅力で、高い評価を受けてきました。特に、モチーフを本来の文脈と違った環境に置くデペイズマンという手法は、シュルレアリスムの画家たちに強いインパクトを与えました。
まず、絵の構図を見てみましょう。左手のマネキンと右手のイーゼルが大きく前景を占め、後景の中央に位置するのが神殿のような建物です。この建物に向けて床板がまっすぐに伸びているため、視線が自然とそちらに向かうようになっています。しかし、建物は同じ床の上にあるのか、床の先の別の空間にあるのかよく分かりません。奥行を見せつつ遠近感にズレを感じさせ、違和感を起こさせるところにデ・キリコらしさが表れています。これは、初期ルネサンス絵画の少しぎこちない建築表現から刺激を受けたもの、とする見方もあります。
この絵の主役であるマネキンはデ・キリコが繰り返し描いたモチーフの一つ。マネキンは性別や個性を示す特徴がそぎ落とされているため、さまざまに想像することができます。右側にイーゼルがあることから、この存在は画家のように受け取れます。また、イーゼルに置かれた黒板には線遠近法で描いたような建物や記号の中にTORINOという文字が読めます。トリノはニーチェが精神錯乱に陥った街の名前であることから、この哲学者との繋がりを感じさせます。
黒板には彫像の輪郭も描かれていて、イーゼルの下側にはその彫像の影らしきものが横切っています。影のみを描くことで不在を強調し、斜めに横切る影は緊張感を生み、ただならぬ空気を演出しています。また、左側に浮いている定規は図面を描くのに使ったと思われますが、マネキンがどう使ったのかはっきりしません。
この絵は日常を越えた何かを意味しているのかもしれません。あるいは、ニーチェの思想を踏まえ、建物の向こうの黒板には何も描かれていないことを考えると、意味ありげに見えるものの背後に隠された真実など何もない、と捉えることもできるでしょう。
ここで、一つ想像してみてください。もし私たちが一切の記憶を失って、初めてマネキンやイーゼルや定規などを見たとしたらどういう感覚になるでしょうか。きっとこの絵を見るときのような、意味が把握できない心もとなさがあるはず。それは日常の全てのしがらみを脱した先の世界を感じることに似ているのではないでしょうか。日常の向こう側がどういうものか示すことが予言だとすれば、マネキンは鑑賞者の方へと振り返り、その向こう側の世界を身振りで示す存在という意味で予言者なのかもしれません。
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「デ・キリコ展」
東京都美術館にて8月29日まで
https://dechirico.exhibit.jp/