「家庭を守る女性の立場としては、多少のゆとりを持つて夫や子供の生命を守るべきだと考えます。畑の仕事を女の手で出来るだけやることなどでも大きな効果があります。奥さんにもう少し何かの工夫がなかつたものでしようか」(「朝日新聞」1947年11月6日付)
萩子によると、これを読んだ矩子はショックを受け、ノイローゼになってしまったという。自分の工夫が足りないから夫が死んだと言わんばかりだから、無理もない。そして苦しんだのは、子供たちも一緒だ。
長男の良臣が自虐的に語った父親のこと
長男の良臣は、小さい頃、父のことを「ふうけもん」と呼ばれたのを覚えている。ふうけもんとは佐賀の方言で、馬鹿者を意味する。自虐的に笑いながら、彼がこう語った。
「要は、法律なんてものは、その時その時の状況で変わるもんだと。そうやって父を否定されたのが、自分の原点だったね。それが小学校に入ると、先生から父のことを褒められる。ところが中学では、今度は先生が否定してくる。それで相手によって、こっちの態度も変えてね。そうして、非常に嘘つきな人間に育っちゃったね」
山口の生き方については、今でも議論がある。遵法精神が賞賛される一方、妻と子供を置いて死ぬのは無責任と批判もある。実際、その家族は世間の目に晒された。
だが、あの欺瞞に満ちた時代、名もない一判事が気高く生き、命を落とした。それに戦勝国のマスコミまでが最大限の敬意を表した。この“事実”は永遠に語り継がれるだろう。
そして、彼の死から34年後、ある出来事があった。
昭和天皇にお礼を述べ、ねぎらいの言葉をかけられた妻・矩子
1981年の5月、矩子は藍綬褒章を受章した。長く家庭裁判所の調停委員を務め、その功績を認められたものだ。皇居の豊明殿に、最高裁や各省庁関係の受章者、約210名が揃った。そこで全員を代表し、天皇にお礼を述べたのが、矩子だった。宮内庁の文書にも「代表者 山口矩子」とある。
なぜ、家裁の一調停委員の彼女が選ばれたか。天皇は、目の前の女性が、あの山口判事の妻と知っていたか。それは分からない。
だが、この皇居は終戦直後、飢えたデモ隊が押し寄せた場所だ。そこから天皇は、国民に乏しきを分かち、苦しみを共にし、助け合うよう訴えた。まさにその場所で、この日、矩子は天皇からねぎらいの言葉をかけられた。彼女にとって、それは亡き夫への言葉に聞こえたかもしれない。