NHKの連続テレビ小説「虎に翼」で、法律を守って亡くなる判事のエピソードが話題になっている。終戦直後、東京地裁で花岡悟(岩田剛典)は経済犯を担当していた。だが、人を裁く身で闇米は食えぬと、配給だけで生活する。そして極度の栄養失調で倒れ、死去するのだが、そのモデルは明らかに山口良忠だ。

花岡悟役を演じた岩田剛典 公式ホームページより引用

死を最初に報じた記者、そして妻が実際に語っていたこと

 東京地裁の判事の山口も、闇の食糧を拒否し、1947年10月、33歳の若さで亡くなった。妻と幼い子供二人を残した死は、衝撃を与え、海外でも大きく報じられた。米国のAP通信は、東京発で、a man of high principles(プリンシプルの男)とする記事を配信した。プリンシプルとは、原理原則のことで、命を賭けて信念を通す高潔さを指す。

 それをすぐに、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストなど大手紙が掲載した。またタイム誌など有力誌もこぞって取り上げ、ここでもプリンシプルという見出しが躍った。

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 まだ終戦から2年目、米国では反日感情も強かったはずだ。そこで、政治家でも財界人でもない、名もない判事に最大限の敬意を表したのだった。

 じつは、この山口良忠は佐賀出身で、私の地元の母校の先輩に当たる。それもあって、今から十数年前、その家族や関係者を訪ねて回り、話を聞いたことがある。そこで浮かんだのは、正直者が馬鹿を見る、当時のこの国の醜悪な姿だった。

 山口の死を最初に報じたのは、朝日新聞の佐賀支局の記者だった分部照成である。判事が療養中に亡くなった白石町を訪ね、取材したという。もう半世紀以上も前だが、その記憶は鮮明だった。

「当時の日本は敗戦直後で、皆が虚脱状態だった。そこへ山口判事は、『我こそが日本人だ』というのを見せた訳だ。判事の奥さんは、『私は主人を信じて、ついていきました』と言っていましたよ。自分が会いに行った時は、彼女も栄養失調で倒れていた。その枕元で、小さい男の子が二人遊んでいたのを覚えてますよ」

 分部は、日本人が虚脱状態だったと繰り返したが、それは当時の食糧事情を見れば分かる。

 敗戦の年、1945年は冷夏と水害が重なり、米が記録的な凶作になった。その上、数百万人が海外から引き揚げ、翌年には未曽有の食糧不足が発生した。それまで食糧管理法(食管法)で配給していたが、遅配や欠配が続くようになる。

「経済犯を裁くのにヤミはできない」

 東京でも10日以上の遅配はザラで、野菜や魚も同様だった。となると、配給以外のルート、闇市場で手に入れるしかない。また農家を回って、着物などを米や野菜と交換する、むろん食管法違反だ。こうして捕まった者を裁くのが、山口の仕事だった。