文春オンライン
「経済犯を裁くのにヤミはできない」遺された妻子が語っていた山口良忠判事“栄養失調死の真実”《「虎に翼」で岩田剛典が熱演》

「経済犯を裁くのにヤミはできない」遺された妻子が語っていた山口良忠判事“栄養失調死の真実”《「虎に翼」で岩田剛典が熱演》

2024/06/22
note

 妻の矩子によると、1946年10月、経済事犯担当に任命された夜に、こう告げられたという。

「人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。私はよい仕事をしたい。判事として正しい裁判をしたいのだ。経済犯を裁くのに闇はできない」

 そして翌年、栄養失調で倒れるのだが、そもそも何が、そこまで彼を駆り立てたのか。その鍵を握ると思われる2つの事件があった。

ADVERTISEMENT

公式ホームページより引用

 一つは、1946年5月に行われた飯米獲得人民大会、いわゆる「食糧メーデー」だ。皇居前広場に25万の群衆が集まり、配給改善を訴えた。その後、一部は坂下門から皇居に向かい、天皇に面会を求めた。宮中にデモ隊が押しかけるなど異例である。

 その直後、昭和天皇は、ラジオで国民に呼びかけた。乏しきを分かち、苦しみを共にして、同胞で助け合ってもらいたい。これも極めて異例で、「第二の玉音放送」と呼ばれた。

 そして二つ目は、1947年の夏、国会に設置された「隠退蔵物資等に関する特別委員会」だ。戦時中、軍は民間から大量の貴金属や軍需物資を集めたが、敗戦後、多くが行方不明になった。旧軍人や政治家らが横領し、闇市場に流れたとされ、当然、仲介役のブローカーも暗躍した。

山口判事の妹が見た“生前の兄の姿”

 今の自民党の裏金どころではない。庶民がインフレと食糧難に喘ぐ中、一部は国の財産を奪い、濡れ手で粟の儲けを手にした。まさに正直者が馬鹿を見る世界で、それを山口も目にしたはずだ。しかも東京地裁から皇居も国会議事堂も、すぐ先である。闇米を拒否したのは、彼なりの精一杯の抗議だったかもしれない。

 1947年の秋、故郷の佐賀に戻った山口は、父が宮司を務める白石町の八坂神社の社務所で療養した。そこへ見舞いに訪れた妹の萩子は、こう語ってくれた。

「餓死するまで闇米に手を出さんのは異常だって言う人もいたんです。でも東京から戻った後の兄は、出されたものは何でもよく食べとりましたよ」

 彼が闇の食糧を拒否したのは、判事として経済犯を裁いた時だった。職務を離れれば、もう良心の呵責に悩まずに済む。まるで肩の荷が下りたように、配給以外のものも口にしていた。

遺族を傷つけた総理の妻の言葉

 だが、すでに体力の限界に達したのだろう。風が冷たくなる頃、容態が悪化し、言葉を発するのも辛くなる。そして、10月11日、力尽きるように息を引き取ったのだった。

山口良忠判事の墓地 筆者提供

 こうして彼の死は大きな反響を巻き起こすが、一方で全く逆の声があったのも事実だ。たかが闇の取り締まりで死んでどうする、という。特に家族を傷つけたのは、片山哲総理の妻、菊江の言葉だった。