シーレはといえば、彼が初めて自画像を描いたのは父の死の直後である。その後二百点もの自画像を描くことになるのだが、画中の彼は常に鋭い視線をこちらへ向け、その体は月日が経つにつれ痛みの記憶が鮮明になるかのように各部が針さながらに尖り、見る者をひりひりした感覚に陥れる。彼にとっては肉体、それも性器への執着は、父の梅毒と関係なしとは言えないだろう。
父没後、母はシーレの画家志望にいっそう反対した。プロになっても自活できるとは思えず、鉄道エンジニアのような地道な職について一家を支えてほしかった。しかしシーレはそんな母の気持ちを逆撫でする行動を取る。15歳の時、2歳下の仲の良い妹ゲルトルーデと二人で泊まりがけの旅に出たのだ。
以前から彼女をモデルに絵を描いていたが、この度はヌードモデルとして連れて行った。これに関して、兄妹は近親相姦的関係だったと考える批評家が少なくない。真相はわからないものの、二人とも普通の感覚と違っていたことは間違いあるまい。母親の心配と怒りも当然だろう。
16歳でギムナジウム(進学校)を終えたシーレは首都に上り、工芸美術学校にしばらく在籍した後、ウィーン美術アカデミーを受験して最年少での合格を果たす。幸いにも裕福な叔父が後見人となってくれたので、想像するほど貧しいウィーン生活ではなかった。ちなみに前にも触れたが、この翌年の1907年に18歳のヒトラーが同校を受験して落ちている。翌年に再度挑戦し、また落ちた。倍率は4、5倍程度だったらしい。
スキャンダラスな生活の果てに
シーレがクリムトに接近したのは、アカデミーの授業に早々と幻滅してのことだ。学生はアカデミー外で作品展示をしてはならない、と禁止されているにもかかわらず、小規模ながら個展を開き、また1909年にはクリムト・グループの大展覧会である「第二回クンストシャウ」にも四作を出品した。
残念ながらそれらの作品が話題になることはなかったが、同時に展示されたゴッホ、ムンク、ゴーギャン、マティスなど国外の新しい潮流にシーレは大いに刺激を受け、このままでいいのかと自作を問う良いきっかけになった。クリムトがマカルト様式から脱却したように、シーレもまたクリムト作品から抜け出ようともがき始めたのだ。