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 この年、アカデミーを中退している。もうここで学ぶことは何もない。クリムト作品からも離れねばならない。それはできる。だがクリムト本人から離れるのはさらに二年近くかかった。クリムトの包容力によるものであろう。とはいえ、学校で孤立したように、クリムト・グループとの交流も居心地は悪かった。若すぎたせいもあるし、またきちんと古典美術を学んでいなかったため、彼らの芸術論に全くついてゆけないのだ。疎外感は募り、二十一歳を迎えた時、彼はとうとうウィーンを去った。

 一人でではない。クリムトのモデルだったヴァリ・ノイツェルとすでに恋人関係になっていたから、彼女を伴い、母の故郷クルマウ(現在はチェコだが、当時はオーストリア=ハンガリー帝国)に移住した。ところがわずか三か月後には石もて追われるごとく追放されるのだから、田舎の人々にとって彼らの日常の暮らしはよほど不品行に見えたのだろう。

 仕方なく二人はウィーン郊外のノイレングバッハに移る。ここはシーレの叔父の別荘がある町だった。どこへ移ろうとシーレは等身大の大鏡を持ち運び、それに自分を映して飽きることはなかった。自画像を描くばかりでなく、カメラでも己の姿を多数撮っており、まさにナルシシズム全開である。オールヌードはもちろん、自慰行為すら描く露悪趣味もまた、自己愛の裏返しなのだから。

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 ヴァリのヌードも多数描いたが、彼のアトリエはなぜか地元の少女たちの溜まり場になった。自然にそうなるはずもないのだから、もしかするとヴァリが声をかけ、少女たちにわずかなお小遣いでヌードモデルをさせたのではないか。画面の彼女たちは彼の自画像同様、肉が削がれ、輪郭は尖り、壊れた人形みたいにぎくしゃくし、性器を露出し、異様なエロティシズムを醸し出している。シーレは生活のためにそれらをポルノ画として売りさばいていたのだろうか。そうだとしてもあまり驚かない。

 シーレの少女ヌードの過激さを見ると、クリムトの女性美がいっそう際立つ。彼はそもそも少女を裸にはしなかった。成熟した女性の得も言われぬ曲線や、なめらかでやわらかな肌を理想化した。男である自分とは全く違う不思議な美しい生きものとしての女性を愛した。『ヌーダ・ヴェリタス』のような女性ヌードは、自分に溺れた男には決して描けないだろう。