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写真=iStock.com/Korekore 現在の丸亀市、讃岐富士とも呼ばれる飯野山をのぞむ(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/Korekore

直言には子どもがいない。自分と血のつながるノブに婿を取らせて家を存続させる。最初からそれが養子縁組の目的だったのだろう。

武藤家は金融業などを営む資産家で、大きな屋敷をかまえていた。しかし、かなりの倹約家でもある。家のことを取り仕切る義母・駒子も質素倹約の家風をかたくなに守り、まだ幼かったノブにも容赦なくそれを叩(たた)き込んだ。便所紙を使いすぎるとか、些細なことですぐに説教される。また、掃除や洗濯などの家事にもこき使われた。倹約家なだけに、広い家に見合うだけの女中を雇っていなかったのだろうか。

義母はかなり細かく几帳面(きちょうめん)な性格でもあり、一切の妥協を許さない。仕事に手抜かりがあればまた叱責(しっせき)される。ノブとは血縁のない赤の他人。血の通った母娘であれば、その受け取り方もまた違っただろうが。

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義母の小言は、女中奉公にだされた先で女主人から叱られているよう。そこに愛を感じることはなかったようである。幼な子が親元を離れて暮らすのは辛い。それにくわえてこの仕打ち。恨んだこともあっただろう。

伯父の妻である義母に女中のように酷使された少女時代

ノブは晩年になってから、子や孫たちによく自分の昔話をするようになる。そこに義母の話がでてくると必ず「性格のキツイ人」「厳しい人」といった表現が使われる。

母と娘というよりは、嫁と姑(しゅうとめ)のような感じでもあり、長い年月が過ぎていたのだが、わだかまりは残っていたようだ。

それでも女学校には通わせてもらった。女学校卒の経歴は、それなりの階層においては結婚に有利な条件のひとつになる。義父母にはそんな思惑があったのだろう。もっとも、この時代はどこの家でも娘を女学校に通わせる目的はそれだった。

花の女学生、人生でいちばん楽しい時のはずなのだが……、あいかわらず義母は家事をあれこれと言いつけてくる。色々とやることが多過ぎて、友達と遊ぶ暇などはない。サボればまた義母から厳しく叱られる。常にその目を意識して、文句を言われぬよう細心の注意を払う。家の中では常に緊張を強いられてリラックスすることができなかった。