2人の将来がかかった手術に葛藤
結論を出す立場の日赤は、数々の医療倫理的な問題に頭を悩ませました。
〈2人共通の臓器をどのような基準でもって配分するのか〉〈ひとりの命を救うため、もうひとりの命を犠牲にするという選択は許されるのか〉〈患者は自国の医療水準で最善の治療を期待するのが原則だ〉
ほかにもさまざまな論点が存在しました。〈切り離すのはかわいそうだ〉という情緒的な世間の反応。〈補完しあって生きながらえてきた2人の将来は天命に任せるべきだ〉という儒教的な考え。〈これ以上の世論の圧力や経済的・人的負担に耐えられるのか〉という組織的な事情。失敗した場合の日本とベトナム両国の友好関係への影響を懸念する声もありました。
日赤が下した判断は、「2人の生命を救うという緊急移送の本来の使命は達成された」「日本での分離手術は見送る」というものでした。
2人は87年(昭和62年)10月下旬、およそ130日ぶりに母国に戻りました。すると、兄ベトちゃんの容体は安定したものの、昼夜無意識に動くようになったため、次第に弟ドクちゃんに衰弱がみられるようになりました。そして1年半が過ぎた頃には、2人ともに状態が悪化してしまった。88年(昭和63年)の夏に至り、ベトナム側はついに分離手術を決断しました。
「もし失敗したら…」とためらう医師たち
日赤はベトちゃんとドクちゃんを帰国させた時、引き続き最善の協力を行うと約束していました。また、必要に応じて医薬品などをベトナムに送り、現地での治療を支援してきました。そしていよいよ分離手術という局面を迎え、私はその支援を担当する日本側の医師をそろえる担当になりました。
候補に挙がった専門医を訪ねて協力をお願いしました。「私ならこうするね」などと意見はしてくれるのですが、誰も引き受けてくれません。内心は「もし、失敗したら、大変なことになる」と腰が引けていたのでしょう。
結局、日赤の医療スタッフのなかから、定年間近の麻酔医の先生と血液の専門家、人工透析の技術者、そして彼らをサポートする私の計4人が派遣されることになりました。