リバプールの綿花商人として米英を行き来していたジェームズ・メイブリックも犯人と目された。1992年、マイケル・バレットというメタル商人が、メイブリックのものとされる日記を発見したと言い出したことが発端だった。

残忍な犯罪記録の日記が発見された商人

 その日記には、妻の浮気を知ったメイブリックが5人の女性たちに対して残忍な犯罪を犯したことが記されていたという。その日記は発見されてから、専門家たちに何度も調査され、本当に切り裂きジャックが書いたものかどうかで専門家たちの意見は分かれた。犯人だけが知っている殺人事件の詳細が書かれているという者もいたが、バレットは日記を手に入れた経緯について何度も話を変えているため、日記の真正性には疑問が投げかけられている。

©︎AFLO

 1993年には、「私はジャック、J・メイブリック」という文字と、殺害された5人の女性たちのイニシャルが刻まれた懐中時計も発見された。しかし、刻印した人物がメイブリックかどうかは不明で、たとえメイブリックが刻印していたとしても、彼が犯人である確固たる証拠とは見なされなかった。

ADVERTISEMENT

「私はジャックだ」と言い残した殺人医師

 スコットランド生まれで、カナダのモントリオールの大学で医学を学んだトーマス・ニール・クリームを犯人と主張する者もいる。クリームはカナダで違法に中絶手術を行っていたが、強力な麻酔薬が原因で亡くなったとされる患者の遺体が発見されたことから警察の調査を受け、米国に逃亡。シカゴで中絶クリニックで開設するが、そこでは売春婦の患者が数多く死亡していた。クリームは既婚女性と不倫し、彼女の夫を毒殺した罪で終身刑を言い渡されるも早期釈放を勝ち取り、ロンドンに移住。クリームはそこで4人の売春婦を毒殺した殺人罪で、1892年に絞首刑に処されている。

 クリームが犯人ではないかと目されたのは、絞首刑に処される直前、クリームが死刑執行人に対して口にした言葉が「私はジャックだ」だったからだ。しかし、その言葉は死刑執行人以外は聞いていないことや、1888年に切り裂きジャックが殺人を繰り返していた時、クリームは米国・イリノイ州の刑務所に収監されていたとされていることから、クリームが犯人であるという決め手にはならなかった。