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「経営戦略」はノルマンディー上陸作戦に学べ〈史上最大のロジスティクス計画に隠されたヒントとは?〉

2024/07/14
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限られたチャンスを逃さない

 1944年6月4日21時、ロンドンの連合国遠征軍最高司令部では、司令官のアイゼンハワー米陸軍大将以下の各指揮官が集まり、作戦会議が行われた。この日、ドーバー海峡及びフランス北部を暴風雨が襲っていた。気象予報官の報告では、6月5日から7日までの3日間は天候が回復するが、その後は悪天候になる。それ以降、気象条件が良くなるのは7月中旬まで待たなければならない。参加者全員が最高司令官の決断を待っていた。

 アイゼンハワーは目を閉じ、暫く沈黙した後に目を開いて静かにいった。

「私は決断を好まない。しかし、決断しなければならない。では諸君、前に進もう!」

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 6月6日午前6時30分、激しい艦砲射撃や空爆の後に、約5000隻の艦船に乗り込んだ米英軍を主力とする約18万人の兵士達がノルマンディー海岸に上陸を開始した。

 海岸は、西からユタ、オマハ、ゴールド、ジュノー、ソードと名付けられ、ユタ海岸には米第4歩兵師団、オマハ海岸には米第1歩兵師団(同師団指揮下の第29歩兵師団を含む)、ゴールド海岸には英第50歩兵師団、ジュノー海岸にはカナダ第3歩兵師団、ソード海岸には英第3歩兵師団が上陸した。

ユタ海岸に上陸した米軍 ©Collection Roger-Viollet

 オマハ海岸に上陸した部隊は、防御するドイツ第352歩兵師団の主防御正面にあたり、米軍兵士はドイツ軍の猛火を浴び次々と斃れた。海岸には戦死者が累々と積み重なり、砂は血により赤く染まり、後に「血染めの海岸」とよばれるようになった。その他の上陸海岸では、小規模なドイツ軍の抵抗や反撃を排除して概ね予定通り上陸を完了し、後続部隊のための橋頭堡を確保した。オマハ海岸も大きな犠牲を出したが、夕方までには海岸地域の確保に成功した。

 上陸作戦開始前夜には、米第82及び第101空挺師団並びに英第6空挺師団の3個師団約2万人による空からの「降下作戦」が行われた。この作戦の目的は、後方地域の橋梁確保、砲台の占領、ドイツ軍増援部隊の阻止などである。同作戦では、降下地域の間違い、広域分散などのミスが発生したが、概ね所期の目的を達成した。

 

 上陸開始から24時間で連合軍側に発生した戦死傷者の数は、米軍が約6000人、英軍が約3000人、カナダ軍が約1000人であった。一方のドイツ軍側は、はっきりとした数は分からないが、生存者からの聞き取りによれば約4000人から9000人といわれている。

 連合軍のヨーロッパ反攻作戦は「オーバーロード作戦」とよばれ、ノルマンディー上陸作戦の開始日は「Dデイ」として永遠に記憶されることになる。