「作戦」の「究極の目的」
これに先立つ1943年11月28日、イランの首都テヘランで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの3国の首脳による初めての首脳会談が開かれた。
当時のソ連は、ドイツ軍の奇襲から立ち直り、モスクワ正面でドイツ軍を押し返すことに成功していた。しかしながら、まだヨーロッパの大半はドイツの占領下にあった。ソ連側は、ヨーロッパにおいてドイツ軍と戦っているのは自軍のみで、できるだけ早く西ヨーロッパ正面で第2戦線を開くように強く要望した。
席上、チャーチルは「バルカン作戦」(ユーゴスラヴィア正面への上陸)を主張したが、スターリンは実現性がないと反対し、ルーズベルトは補給線の維持から難色を示した。
さらにルーズベルトは、このまま英仏が西側から押し返さず、ソ連軍が単独勝利すれば、「ソ連によるヨーロッパ支配」が完成してしまうとの思惑からチャーチルの意見に反対した。この結果、北フランスへの進攻作戦――ノルマンディー上陸作戦――が決定されることになったのである。その意味で、ノルマンディー上陸作戦の究極の目的は、「ソ連による欧州支配を阻止すること」にあったと言える。
作戦実行にあたって、連合国遠征軍最高司令官アイゼンハワー米陸軍大将は、兵力300万、艦船6000隻、航空機1万4000機を有する大兵力を指揮することになった。その兵力組成は、米英を基幹とする連合軍であり、また陸海空三軍の統合軍でもあった。
「連合軍」というものは、各国の主張や軍種間の協調や統制など多くの問題があり、一元指揮が難しいとされている。アイゼンハワーという若い軍人(当時53歳)が300万人という陸海空の寄せ集めの大軍を、果たしていかに統率できたのだろうか。
アイゼンハワーがフィリピン勤務の経験を買われて、「陸軍参謀本部戦争計画局次長」に補され、初めて参謀総長のマーシャルの下に来たのは、1941年12月14日。真珠湾攻撃から6日目の朝であった。
マーシャルは、「太平洋艦隊は壊滅、空軍も大損害を受け、フィリピンの米軍も劣勢であり補給も困難である。我が軍はいかに戦うべきか」と質問した。
アイゼンハワーは、時間の猶予をもらうと自室で検討し、暫くして参謀総長室にもどると「我々が大規模に反撃するには時間がかかります。それまでフィリピン駐屯軍は耐えることが出来ないかもしれない。しかし、我々は必ず勝利します。そのためにはオーストラリアを基地として準備しなければなりません」と意見を述べた。
マーシャルは「私は君の意見に賛成だ。ベストを尽くせ」と一言いった。その日から参謀アイゼンハワーの不眠不休の活躍が始まった。